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【福澤諭吉をめぐる人々】
鏑木誠

2026/01/09

『慶應義塾名流列伝』より
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校主事

福澤諭吉は日清戦争において日本の勝利を期待していたことで知られている。その熱意は、独自に募金を始めるほどであった。同戦争では福澤の期待する若き2人が海軍で活躍した。その1人が鏑木誠(かぶらぎまこと)である。

慶應義塾出身の軍人

鏑木誠は、安政4(1857)年8月、鏑木元悦の次男として千葉県香取郡古城村鏑木に生まれた。匝瑳(そうさ)郡作新学校で学んだ後、東京に出て明治4(1871)年3月慶應義塾に入った。在学時には「誠安」を名乗り、蓬髪弊衣で義塾の「鐘たたき番人」を務めながら学業を修める苦学生だった。

本人は慶應義塾には約1年間在籍しただけというが(のちに特選塾員)、その後、海軍兵学校に入学した。慶應関係の軍人は海軍に集中しており、一般的に著名な人物としては中牟田倉之助や日高壮之丞が挙げられる。鏑木の在学中に中牟田が校長を務めた時期もあった。

明治9(1876)年には3年生(3号生徒)として軍艦での海上訓練が盛んに行われ、鏑木も乗艦して訓練に励んだ。水雷攻撃を専門的に学んでいたようだ。明治11(1878)年8月に卒業すると海軍少尉候補生となり、遠洋航海に出た。

千島艦事件

明治23(1890)年、日本政府がフランスの造船所ロワール社に発注した新造の水雷砲艦「千島」(排水量750トン)を受け取り、日本まで艦長心得として回航する役目を命じられた。海軍としては明治19(1886)年にフランスに発注した新造艦「畝傍(うねび)」を回航中に南シナ海で失っており、期待を受けた任務であった。しかし、千島は想定したスピードが出ず、当初の予定を過ぎてもなかなか完成しなかった。

「千島」(『世界の艦船』1976年7月号増刊より)

ようやく25(1890)年4月竣工し、鏑木たち士官が乗り込んだ千島は、機関部分に難を抱え、修理しながらも地中海を横断し、スエズ運河を通ってインドを回り、上海経由で日本近海まで来た。事故が起きたのは、寄港した長崎港から出発し、瀬戸内海を通って神戸港に向かう途中であった。11月30日午前4時、愛媛県和気郡堀江沖由利島から1海里ほどの場所で、千島とは逆方向の神戸港から馬関港に向かって航行中だった英国P&O社の郵船ラヴェンナ号(排水量3256トン)と衝突し、沈没した。ラヴェンナ号は同社にとって初のスチール船で、千島よりもはるかに大きな船体だった。事故の原因は、狭い海路ですれ違う際に、東から来たラヴェンナ号が右転し、西から来た千島が左転したことにあった。

船首が破損した「ラヴェンナ号」(英国公文書館蔵)

鏑木は艦長心得として軍法会議にかけられたが、責任者としての安全配慮義務を果たしたと判断され、予審で免訴となった。

日本政府対P&O社訴訟

その後、領事裁判制度により、日本では裁けず、英国の裁判所で日本政府とP&O社の裁判が始まった。26(1893)年5月、日本側は85万ドルの損害賠償を求めて提訴したが、損傷を受けたP&O側も10万ドルの賠償を求めて反訴した。英国領事庁(横浜)は反訴を棄却したが、P&Oはこれを不服として控訴した。英国高等裁判所(上海)は領事庁の判決を破棄し反訴を認めた。そのため今度は日本側が英国枢密院に上告した。枢密院は控訴審の判決を破棄し、ようやく反訴を却下する結果となった。

次に、日本側の賠償の求めを審理する段になったが、8月になって、P&Oから仲介依頼を受けた英国外務省が、日本側に6000ポンド支払いを内容とする和解案を非公式に打診した。日本政府は当初から和解での解決を念頭に置いていたことから、これを好機とみて条件交渉の姿勢を見せた。日本側はカークウッド弁護士の助言を受け、2万5千ポンド(約25万円)の賠償と訴訟費用支払いを要求した。

P&O側は1万ポンド(約10万円)の賠償と訴訟費用(1万2千76円)支払いで歩み寄り、日本側はこれを受け入れた(拙稿「司法省顧問カークウッドと明治政府」『日本歴史』759)。日本国内では千島沈没の悲劇と領事裁判への怒りでナショナリズムが高揚した事件となったが、こうして収束したのであった。

乗組員への思い

「千島」には士官は鏑木を含めて8人乗船していたが、助かったのは鏑木と土山少尉の2人だけだった。乗組員74名が犠牲となり、生存者は16名という大惨事となった。

鏑木は「死者の音容艦体の形装今なお吾人の身辺にあるかごとくに思われ、夢寝の間なお忘れることはできない」 と衝突事故の犠牲になった乗組員の死を悼んだ。その弔文は様々な文献に紹介された。人々の間で悲運の海軍軍人として鏑木の名は知られるようになった。

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