三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
松岡勇記

2025/12/10

『萩市醫師會略史』より
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

明治26(1893)年盛夏、福澤諭吉のもとに長州萩から夏みかんが送られてきた。「子供打揃ひ喜び候て毎日毎日いただき居候」というから、相当な量だったに違いない。その夏みかんの送り主は、適塾時代からの親友、松岡勇記(まつおかゆうき)である。

至極元気のいい活発な男

松岡は、天保5(1834)年12月6日、松岡頼明(通称丹下)の二男として生まれた。福澤は同年12月12日生まれだから、わずかに6日違いの誕生である。松岡16歳のとき、萩で医院を開業する叔父の経平の養子となった。京都で医学や和歌を学んだ経平の医院は名声を博し、吉田松陰の治療もしたことがあったという。

松岡の修学時代は、福澤のそれと重なる。福澤が長崎に遊学したのは嘉永7(安政元、1854)年2月からであるが、松岡は同じ月から九州日田にある広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾咸宜園(かんぎえん)で漢学を学んでいる。松岡が、蘭方医学を学ぶために大坂に出て、緒方洪庵の適塾に入門したのは、安政3年2月18日のことである。福澤が入門するのは、その約1年前のことで、松岡が入門した前後は、腸チフスに罹って生死を彷徨うたいへんな時期であった。そのような経緯から、2人が親しい仲となるのは、おそらく11月に福澤が緒方の食客生となって適塾で寝食を共にするようになってからだと思われる。

『福翁自伝』では、福澤自身も含め適塾生たちの数々のいたずら話が繰り広げられる。松岡は、その「主犯」格として二度登場し、「手口」から、なかなかのいたずら者であることが分かる。

その1つは、適塾生が夏の暑い盛りには「真裸体(まっぱだか)」で生活していたことを語ったあと、「裸体(はだか)のことについて奇談がある」として紹介された出来事である。夏の日の夕方、福澤ら5、6人が、屋根づたいにある物干し場で酒を飲もうという話になった。ところが行ってみると適塾で働く女中たちが先客で涼んでいた。「じゃまなやつらじゃ」と言っていると、松岡が「ぼくがみごとにあの女どもを物干しから追い払って見せよう」と言って、1人真っ裸で女中たちの前に出て行った。松岡は、「お松どん、お竹どん、暑いじゃないか」と声を掛け、そのまま仰向けに大の字になって横たわったものだから、いたたまれなくなった女中たちは、物干し場から出て行った。松岡は、オランダ語で、「上手くいったぞ、早く来い」と、福澤たちに合図し、塾生たちは、物干し場で涼しく愉快に酒を飲んだという。

2つ目の「塾中の奇談」は、手塚という塾生の馴染みの遊女になりすまし、手塚を呼び出す偽の手紙を書いたという出来事である。詳しくは、「福澤諭吉をめぐる人々 81 高橋順益」で紹介しているので参照されたいが、ここでの松岡は、福澤の考えた文を女性風の書体に仕立て、最後には福澤と手塚との仲介役を装い、まんまと手塚に酒と鶏を奢らせる役柄である。

ほかにも、『福翁自伝』で語られる塾生の奇談失策の数々に松岡の姿を感じさせるものは、少なくない。そんな松岡を福澤は、「至極元気のいい活発な男」と評している。2人が同じ釜の飯を食べて暮らしたのは2年弱のことであるが、松岡の言動は、勉学に明け暮れる福澤を大いに明るくさせたに違いない。

他事なく交遊

適塾で学んだのち長崎に出た松岡は、長崎医学伝習所を設立し西洋医学を教授したオランダ人軍医ポンぺや松本良順に学んだ。

その後、萩に戻った松岡は、養父経平が萩藩の侍医、明倫館(藩校)の外交医学館の都講(とこう)(塾頭)となるなか、そのもとで医学の道を研鑽し、医学館改め好生堂の舎長にも任命された。慶応3(1867)年には、医術修業の藩命を帯びて、萩藩の医療行政を統括する青木研蔵の養子となった周蔵とともに長崎に留学した。丁度、この前年から、適塾の学友長与専斎が長崎精得館(せいとくかん)(医学伝習所の後身となる西洋医学校)にて講義の傍聴、診察の傍観をしていた。長与の自伝『松香私志(しょうこうしし)』によれば、このとき幕府は、長州への警戒を強め、萩藩士の入学を認めなかった。そのため松岡と青木は、「件の次第にて通学も叶はす、世を憚(はばか)りて姓名を変し陰(ひそ)かに尋来りけれは、他事なく交遊して講習を共にしけり」という。薩摩藩蔵屋敷で起居し、薩摩藩士に成りすましていた松岡たちは、精得館で傍聴、傍観を終えて帰宅した長与のもとを密かに訪ねて、その日の講義内容を教えてもらっていたのだろう。なお、長崎で国際情勢、政治問題に関心を持った青木は、留学が認められてドイツに渡り、外交官の道を歩んでのちに外務大臣となる。

一方の松岡は、あくまで医師と教育者としての道を歩み、東京と地方を転々とする。そして、その間も福澤との交遊が続いていることを福澤書簡から垣間見ることができる。

明治4(1871)年に栃木県が誕生すると、翌年に栃木県立栃木病院が開設され、松岡はその初代院長に招聘された。松岡は、仮病院が手狭となったため新築伺いを提出、さらに病院内に医学塾を設けるなど草創期の栃木病院の発展に尽力した。また医療と医学教育を統合する構想を「医道改正建言」として文部大臣に提言するなど医療行政の発展にも努めた。栃木病院長を務めた2年弱の間に、福澤が適塾の後輩平山良斎に宛てた書簡(書簡148)に、「松岡勇記ハ当時東京ニ在りて時々面会」とその消息を知らせている。松岡は、この時、頻繁に東京に出張し、福澤にも会っていたのだろうか。

その後、陸軍軍医の勤務を2年余りで辞した松岡は、今度は新たに開院する茨城県立茨城病院長となる。同病院の新築開院式典は、明治11年3月17日に挙行され、松岡は院長として挨拶、長与は衛生局長として来賓出席していた。松岡は、ここでも医学教育に熱心で、開院の翌年に茨城病院内に茨城医学校を開校、院長と校長を兼任した。中津出身で当時、茨城県師範学校の教員であった松木直己(なおみ)に宛てた福澤書簡(書簡250)の追伸には、茨城にいる松岡にくれぐれもよろしく伝えて欲しい、駿河台で開かれる緒方先生懐旧の集会には、ぜひ出張し参加して欲しいとの伝言が添えられている。

さらに同じ松木(このとき松木は茨城県師範学校長)に宛てた明治14年1月の書簡(書簡561)では、「松岡氏の事は直に長与えも話し、尚文通もいたし置候処、本月10日緒方の集会にて松岡も参り長与も同席、久々にて懇話致候事に御座候」とある。この前後に松岡は茨城病院長の職を退いていることから、「松岡氏の事」とは、病院長の進退に関わる話であったのだろうと想像できる。なお、ここにも登場する「緒方の会」は、毎年、緒方の命日である6月10日と、1月10日に開催されていた適塾の同窓会である。

東京に戻った松岡は、それから1年経たないうちに、福澤に150円の借金を申し込む。この申し入れに福澤は、金は用意できるものの、今は「金つまりの様子」のため期限の10月25日は間に合わない、来月なら急ぎ用意ができるので、「何卒先方へ御談し」、来月3、4日まで待ってもらえるようにお願いできないかと返信した(明治14年10月23日付、書簡618)。この貸借は、福澤が書き留めた金銭記録の中で明治14年の出入りを記した「明治15年1月17日総勘定」に「百五十圓 松岡勇記」とあることから、実行されたことが確認できる。松岡はなぜ現在価値で100万から300万円ほどする借金を福澤に申し込んだのか。文面からは、松岡が支払うべき相手がいることが分かるが、愛宕下田村町(現在の西新橋)に開業した医院の資金に関わる金銭だったかどうかは、想像の域を出ない。一方の福澤は、このとき明治14年の政変の渦中にあり、10月11日に大隈重信が辞職、翌日、国会開設の詔が発表されたところであった。福澤の「金つまり」の直接の原因ではないだろうが、多忙で困難な時期にあっても、松岡を支援したところに2人の友情と信頼を確認できる。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事