三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
長与専斎

2023/07/10

福澤研究センター蔵
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

福澤諭吉と長与専斎(ながよせんさい)は、緒方洪庵の適塾で知り合った。福澤が適塾に入ったのは、安政2(1855)年3月、満20歳で、長与はその前年、満16歳で入っていた。そして、福澤が安政5年に江戸に出るまでの間、適塾での青春の日々を共に過ごすことになる。

その様子は、『福翁自伝』にも記されている。福澤が、適塾の仲間と桃山に花見に行った時のことである。

「ふと西の方を見ると大阪の南にあたって大火事だ。(略)サアたいへんだ。ちょうどその日に長与専斎が道頓堀の芝居を見にいっている。われわれ花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでもかまわないけれども、長与が行っている。もしや長与が焼け死にはせぬか。なんでも長与を救い出さなければならぬというので、桃山から大阪まで二、三里の道をどんどん駆けて、道頓堀に駆けつけてみたところが、とうに焼けてしまい、(略)長与はどうしたろうかと心配したものの、とても捜すわけにゆかぬ。まもなく日が暮れて夜になった。」

その2人の関係を、『福澤諭吉伝』の著者石河幹明は、「長与専斎とは緒方塾以来最も古い親友で、その交情は兄弟親戚というも差支えないほどであった」と記している。福澤自らも「親友」という言葉を使っているが、2人はまさに自他共に認める親友であった。

豚に騎して山に登る

長与は、適塾で学んだ後、文久元(1861)年に長崎に移り、ポンペに西洋医学を学ぶ。そして、藩命で郷里に帰り大村藩の侍医を務めた後、再び長崎で、マンスフェルトの講義と診療を傍聴した。そして、長崎医学校の学頭等を務めた後、明治4(1871)年東京に呼ばれ、以来日本の医療行政に携わることになった。

同年から岩倉使節団に随行して米欧を視察した時のことを長与は、自伝『松香私志』で次のように回想している。

「初めの程は(サニタリー、ヘルス、ゲズントハイツプレーゲ等の言葉も)ただ字義のままに解し去りて深くも心に留めざりしに、ようやく調査の歩も進むに従い、単に健康保護といえる単純なる意味にあらざることに心付き、(略)ここに国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織あることを発見しぬ。これ実にその本源を医学に資(よ)り、理化工学、気象、統計等の諸科を包含してこれを政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以(ゆえん)の仕組にして、流行病、伝染病の予防は勿論、貧民の救済、土地の清潔、上下水の引用排除、市街家屋の建築方式より、薬品、染料、飲食物の用捨取締に至るまで、およそ人間生活の利害に繋(かか)れるものは細大となく取捨網羅して一団の行政部をなし、(略)国家行政の重要機関となれるものなりき。」

そして、「健康保護の事に至りては東洋にはなおその名称さえもなく全く創新の事業なれば」、「畢生の事業としておのれ自らこれに任ずべしと、ここに私(ひそ)かに志を起こし」たという。

長与は、明治6年に帰国すると、文部省に新たに設置された医務局の局長に任じられ、8年には内務省にその機能を移して衛生局長となり、日本の医療行政、公衆衛生行政の基礎を築くことに尽力した。ちなみに、「衛生」という言葉をはじめて用いたのも長与で、「医制を起草せし折、原語を直訳して健康もしくは保健などの文字を用いんとせしも、露骨にして面白からず、別に妥当なる語はあらぬかと思いめぐらししに」、意味は異なるが『荘子』の中の語を思い付き用いたという。

長与は、国民の間への衛生観念の啓蒙にも尽力した。その例が、大日本私立衛生会の設立である。明治10年からコレラの流行が繰り返したが、政府が隔離をはじめ強権的な対応を強めると、国民は隠蔽に走るばかりか、衛生に関わることは全て拒否反応を示すようになる。そこで、官と民が融和し協力できるように、衛生の考えとその方法を民の間に広めることを目指して16年に設立したのであった。

長与は明治24年、多病を理由に衛生局長を退任した。福澤と長与は、「兄弟、親戚といっても差支えないほど親しく往来しておった」(三男長与又郎の回想)ので、衛生局長としての労苦を福澤は良く理解していた。これに関して福澤は、31年9月「奉祝長与専斎先生還暦」で次のように記した。

人は、長与のことを「政界に翺翔(こうしょう)して名利円満の人」と言う人がいるが、単に名利を求めるならば、自ら開業したら巨万の富をなしたであろう。長与の官界での尽力は、「日本国の為に医風改革の初一念は自から禁じて、禁ずるを得ず、その改革の実行に政府の力を利用するの必要を信じて敢て進退を決したることなり」であった。そして、官界の「俗輩」の中での医事の改良は、「その状恰も豚に騎(き)して山に登るに異ならず、万事定めて不如意ならんと、竊(ひそか)にその心中を推察したるは毎度のことなり」と述べたのであった。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事