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【福澤諭吉をめぐる人々】
長与専斎

2023/07/10

医界の先生に負うところ少なからず

福澤と長与は、日本の医療の為にも様々な場面で協力しあった。明治34年2月3日に福澤が歿した際も、長与は次のように嘆いた。

「四十有余年感、常に誘掖切磋(ゆうえきせっさ)の恩を荷い、友情歳月と共に殷なり。予単(ひと)り天下の為に哭(こく)せず、亦求めて得難きの旧友を喪(うしな)いたるを悲まずんば非ず。矧(いわ)んや我が医界の先生に負う所尠(すく)ならざるに於て痛惜の情更(さ)らに切なるを禁ずる能(あた)わず」

そして続けて特に挙げたのは、北里柴三郎への支援であった。

北里は熊本医学校で最初に医学を学んだが、そこではマンスフェルトの指導を受けた。そして、長与が校長をしていた東京医学校に転じて学び、内務省衛生局に就職した。まさに、長与の跡を追うようであるが、長与も北里を親身になって支えた。

北里は、衛生局から派遣される形で、明治19年にドイツのベルリンに渡り、ローベルト・コッホに師事して研究に没頭した。そして、破傷風菌の嫌気性培養、免疫血清療法の開発など、世界の注目を集める業績を挙げた北里は、25年5月に帰国した。この間、留学期間の延長に尽力したのも長与であったから、長与は、北里の成果を我がことのように喜んでいた。

しかし、日本の学界は冷淡であった。欧米の大学や研究所の招聘を断っての帰国であったが、日本でなかなか研究が始められないままであった。心を痛めた長与は、福澤に相談した。

すると福澤は早速に、いずれ子供達のためにと用意していた芝御成門近くの借地に、森村市左衛門の協力も得て伝染病研究所を作った。なお、研究所は間もなく、長与が副会頭を務める先述の大日本私立衛生会の研究所となり、同会の事業として、国庫の補助等も受けながら拡充していく態勢も整えた。

更に、福澤と長与は当時治療法の無かった結核についても話し合うことがあった。そして長与の発案を受けて、北里をいわば院長、長与を顧問として福澤が翌年設立したのが、土筆ヶ岡養生園である。白金三光町の福澤所有の土地に、福澤自ら、隣接地所の購入、病棟の設計建築、経営体制の確立などを指揮して作った結核の専門病院である。

養生園には、北里の名声を慕って多くの患者が集まった。事務長田端重晟はその様子を「門前たちまち市をなし、六十余の病室も常に満員で増築又増築、満員又満員の盛況を呈しました」と述懐している。

福澤も長与も没した後の大正3(1914)年、伝染病研究所が内務省から文部省に移管されて東京帝国大学の附属機関にされた時、北里と所員は決然と総辞職し、直ちに独力でこの養生園の地に北里研究所を設立した。それを可能にしたのは養生園とその収益であった。正に2人は死して後になお、北里を救ったのである。

慚愧感激自ら禁ずる能(あた)わず

もう1つ、余り知られていない2人の協力を紹介したい。それが『蘭学事始』の再刊である。

『解体新書』の翻訳・出版の苦労を語った『蘭学事始』は、幕末の頃には幻の書となっていた。ところが、慶應年間に神田孝平が本郷の露店で偶々写本を発見、福澤も洋学者仲間とそれを熟読した。そして、福澤は、保存には出版することが一番と、杉田玄白の曾孫廉卿に相談の上、明治2年にこれを出版したことがあった。

長与も、明治4年に長崎から東京に移ると、早速に福澤を訪ねたが、そこで夜を徹して2人で読んだのは『蘭学事始』であった。その時のことを長与は31年、『三田評論』の前身『慶應義塾学報』に語っている。

「その後明治の初年、余は東京に出で福澤翁の許(もと)を訪いける折り、四方山の談話の序の先哲の事に及び、蘭学事始の一書を出し示されけるが、その夜一泊して通読しけるに一章ごとに志操の緊忍たるに感じ、当時辛勤の有様を追想し、慚愧(ざんき)感激自ら禁ずる能(あた)わず、しらずしらず暁の激したりき」

長与は、福澤と共に読んだ時の感慨を生涯持ち続け、明治23年第1回日本医学会を開くにあたって、その記念に『蘭学事始』の再版を思い立ったのであった。

福澤は、この再版を巡って長与に宛てた書簡の中で、「実にこの書は多年人を悩殺するものにして、今日も之(これ)を認(したた)めながら、独り自ら感に堪えず。涙を揮い執筆致し候。何卒再版は沢山にして、国中に頒(わか)ちたく存じ候。」と記した。

そして福澤は、「蘭学事始再版之序」(『福澤諭吉著作集第5巻』所収)を記して協力した。以下はその一部である。

「ターフルアナトミアの書に打向い、艫舵なき船の大海に乗出せしが如く茫洋として寄るべきなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に至りては、我々は之(これ)を読む毎(ごと)に、先人の苦心を察し、その剛勇に驚き、その誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなし。」

長与は「生来多病」(『松香私志』)であったので、福澤の心配は大きかった。長与が衛生局長を退任した時、その心情を吐露したことがある。福澤は岡本貞烋に宛てた書簡の中で、「三十余年来骨肉之兄弟同様に交り、如何なる私事も互に語る間柄にて、長与の病身には毎度心配いたし、(略)万々一にも今日彼が死すれば、老生は実にたまらぬ訳けなり。」と記した。

実際には、45年余の親交を経て、福澤が歿した翌年、明治35年に長与も歿したのであった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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