【福澤諭吉をめぐる人々】
松岡勇記
2025/12/10
夏みかんのマルマレット
松岡は、中央衛生会で御用掛に任命されて(明治17年)、翌年に北海道根室県に派遣され、官立の根室病院長を務めた。ここでも英語教育を志し、毎夜町会所で町民に英語を教えた。これが根室英語学校の前身となる。明治23年に根室病院長を退いた松岡は、一時期、東京神田に居を構えるが、明治26年には萩に帰り、萩医会会頭を務め、医学研究会を創設するなど、晩年も精力的に地域医療の発展と後進の教育に力を注いだ。松岡は、「人と為り温厚にして学識・徳望兼ね備り、その手腕に挨(う)つ所が極めて多かった」が、明治29年4月3日に急性肺炎で急逝した。親友の訃報に接した福澤が同月8日に香典を送ったことが「金銭出入帳」から確認できる。
さて、冒頭の夏みかんの話である。松岡が戻った当時の萩は、幕末に藩庁が山口に移転したうえ、萩の乱(明治9年)が追い打ちをかけ、禄を失い困窮する士族が多かった。そこで萩藩士小幡高政が武家屋敷の空き地に夏みかんを植えて、商品栽培を奨励した。当時の夏みかんは、柑橘類の中でも高級品で、明治22年には城下町一帯に夏みかん畑が広がり、夏みかんの果実と苗木の収益が萩の財政を追い越すまでになったという。生前の松岡が福澤に夏みかんを送ったのには、このような背景があった。福澤は、夏みかんが届いたことへのお礼の手紙(書簡1779)を書き、返礼として、さつまがすり(綿織物)一反を小包郵便で送っている。福澤は書簡で、夏みかんを調理して「マルマレットと為り」と伝え、「随分面白き調理」であるから、松岡にも「試に御製し被成度」とマーマレード作りを勧めている。この書簡から日本で最初に夏みかんのマーマレードを作ったのは、福澤とされている。
後年、松岡の娘フユの孫に当たる方から書簡618の慶應義塾への寄贈の申し出を受けて、当時の慶應義塾史資料室長石川博道が同家を訪ねたとき(昭和52(1977)年)のやりとりが『福沢手帖14』に残っている。「うちでは今でも夏みかんからマーマレードを作っていて」と聞いた石川が、いつごろから作っているのか尋ねると、「たしか福澤先生に教わって始めたように聞いてます」という返事であった。
萩の城下町は5月になると、夏みかんの白い花の香りに包まれ、「萩・夏みかんまつり」が毎年開催されている。夏みかんのマーマレードは、萩の特産品であり、中には福澤の「マルマレット」を冠した商品もいくつかあって、今も地域振興に一役買っている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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