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【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋順益

2023/09/01

  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部主事

学生時代の親友は、かけがえのない財産である。利害損得を抜きにつきあえる。年を重ね、社会的に責任のある立場になっても、旧友と会えば、たちまち若き日の自分に戻って、心置きなく振る舞うことが出来る。同じ釜の飯を食った仲ならば、なおのことだろう。福澤諭吉にも、そのような親友がいた。その1人が高橋順益(たかはしじゅんえき)である。

血気の壮年、乱暴書生

高橋は、福澤より3年早く天保3(1832)年に丹後宮津に生まれた。宮津は、日本三景に数えられる天橋立で知られるが、小式部内侍の歌に「いく野の道の遠ければ」とあるように、今でこそ京都府に属するものの、京の都からは、遥かに遠い。高橋は、日本海に臨む田舎町から、蘭方医学を学ぶために大坂に出て、嘉永7(1854)年8月6日に緒方洪庵の適塾に入門した。福澤が入門するのは、その7カ月後のことであるが、2人が遊び仲間としてごく親しくなるのは、おそらく福澤が緒方の食客生となって適塾で寝食を共にするようになってからであろう。『福翁自伝』(以下、『自伝』)には、福澤翁が楽しかった学生時代を懐かしむように、塾生たちがいたずらに興じる姿が生き生きと描き出されている。その、いたずらの場面に3度顔を出すのが高橋である。

宮津湾の天橋立

その1。道頓堀の芝居小屋に役人が見回りに来ると、大威張りで接待を受け、無銭で芝居を見物して帰っていく。この様子を知った高橋が、役人の真似をして芝居小屋に顔を出すと、首尾よく接待に与った。元々芝居を観ない福澤であったが、高橋を心配し、「マサカのときはたいへんだから」と忠告した。高橋は、「なに、わけはない、おのずから方便あり」と言って、図々しくこれを繰り返していたところが、とうとう本物と出くわしてしまった。方便などあるはずもなく、大騒ぎとなった一件は、仲裁を頼んで何とか和解したが、福澤も「おかしいどころか一時大心配をした」出来事であった。

その2。塾生に手塚良庵(のち良仙)という者がいた。手塚には北新地を遊び歩く悪い習慣があり、これをたしなめた福澤は、手塚から今後は勉強する、約束を破れば坊主頭になっても良いという証文をとった。それから、手塚は熱心に勉強するようになったが、今度はそれでは面白くないと、福澤に高橋や長州藩の松岡勇記が加わって、手塚の馴染みの遊女になりすまし、手塚を呼び出す偽の手紙を書くことにした。宛名を大坂なまり風にわざと間違えて鉄川(テツカワ)にしたのは高橋で、いたずらの手が込んでいる。共謀者たちが様子を窺っていることに気づかず、手紙を読んで、そわそわし出し、やがて塾から姿を消した手塚の帰りを、はさみを持った福澤が待っていた。ここに、「まあまあ」と仲裁者が現れて(もちろん共謀者)、手塚は、坊主頭の代わりに酒と鶏を奢らされる羽目になったのであった。なお、漫画家の手塚治虫は、良庵の曾孫に当たる。

その3。福澤が、学問修業に少しも良いことはないと、酒をやめた時に、「何か一方に楽しみがなくてはかなわぬ」と、親切らしく、喫煙を勧めたのも高橋であった。裏では、これまで煙草嫌いで喫煙者の悪口を言っていた福澤を喫煙者側に巻き込もうという、塾生たちの企みがあったようである。いかにも親切そうに煙草を勧める高橋ら塾生たちの口車に乗った福澤は、禁酒も続かず、とうとう「酒とたばこと両刀使いに成り果て」てしまった。

ほかにも、名前はないが、福澤の奇談、失敗談の傍らに高橋がいたに違いないと思える場面がいくつかある。

福澤が交際を深める相手には、自身と似て「品行は清浄潔白にして俯仰(ふぎょう)天地に恥じ」ない人物が多いように思えるが、『自伝』に出てくる高橋は、いたずら坊主がそのまま大きくなったようである。想像するに、高橋は陽気で茶目っ気のある一方で、学問にも熱心で、決してこれを怠ることがなかったのではないか。そこが福澤と馬が合ったところではないかと推測する。

莫逆にして管鮑ただならず

福澤が江戸に出て蘭学塾を開いたのは、安政5(1858)年10月のことであるが、高橋はそれより前に江戸に来ていたようである。当時、江戸の蘭学者たちは、種痘所(天然痘の予防接種をする施設)の必要を感じ、幕府に願書を提出するとともに、蘭方医83人が設立人名簿に署名して、580両の建設資金を集めた。高橋は、手塚良庵とともに、この設立人に名を連ねている。お玉が池種痘所は、安政5年5月7日に開所し、その後、幕府の所管となって西洋医学所と改称(のち緒方洪庵が同所の頭取に就任する)、今日の東京大学医学部の前身となっている。

また、『自伝』口述のためのメモの中に、次の一文がある。「朋友高橋純(ママ)益前に江戸に在り、毎度茶屋失策に笑はる」(『福澤諭吉全集』第19巻)。この文に関係する話は、『自伝』に掲載されなかった。福澤は、適塾では貧乏書生で下等な料理屋しか利用していなかったから、そのような料理屋によくある、その日の献立が記された木札を見て注文する習慣が身に付いていた。江戸で料理屋に行くと、福澤がつい「札を持ってこい」と言って、女中から「手前どもでは、あれは致しません」と返され、閉口したという話がある(石河幹明『福澤諭吉傳』)。これに類する失策があったのではないかと想像される。

福澤が芝新銭座(現在の浜松町)に引っ越すと、高橋は、「おれも福澤の近所に行こう」と言って、芝源助町(現在の東新橋)に借家を求め、医院を開業した。2人は、新銭座に住む木村摂津守の家にも度々、一緒に訪ねていた。ある日は、木村の妻がワッフルを焼いて出したのを見て、面白がった福澤が、翌日、器械を借りて調理をしてみた。すると、卵がパチパチと飛び跳ね、隣で様子を覗いていた高橋にもかかった。木村は、「高橋例の悪口を言出せば、先生、黙って見て居れ、その代りに我れ鰻飯を汝に奢らんと。高橋その馳走をうけ、これにて少し腹が癒えたとて去りたり」(「福澤先生を憶ふ」)と、2人のやりとりを描写している。2人は、おどけて、戯れあい、周りを笑わせたというから、高橋といるときの福澤が、どれほど愉快であったかが想像できる。そのような2人の姿を木村は、「莫逆(ばくぎゃく)にして管鮑(かんぽう)ただならず」(親密で極めて親しい関係である)と表した。

高橋は、中津藩の土岐家にも出入りして、主人の太郎八の信用を得ていた。福澤と太郎八の娘錦の結婚に当たっては、藩御用達の米屋豊前屋周蔵夫婦がもっぱら周旋したと言われるが、高橋も間に立って橋渡し役になったという(『福澤諭吉傳』)。2年後の文久3(1863)年12月21日の高橋の結婚では、福澤と適塾以来の親友である石井謙道(けんどう)が親せき同然に列席していたことが、妻筆子の父、甲府勤番同心の杉浦良尚の日記「家記」に記されている(幸田成友「杉浦愛蔵外伝」)。

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