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【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋順益

2023/09/01

落胆は恰も兄弟を失った時のやう

福澤が、「ごく懇意に」していた仙台藩公儀使の大童信太夫(おおわらしんだゆう)の「日程記」にも、高橋が登場する。文久3年9月17日、福澤が大童を訪ねるが、昼食後、大童は風邪で寝込んでしまった。その4日後、おそらく福澤の紹介で「高橋順益ニ診察を乞」うたのである。

慶応元(1865)年5月、高橋は、長州征伐のため京都に進発する将軍に従う宮津藩主本庄宗秀(老中)の先発の任にあたって上京し、宗秀より一足早く江戸に戻ってきた。6月18日には高橋のもとに大童が訪ねて来て、4日後の22日に今度は高橋が福澤と連れ立って大童を訪ね、共に酒を飲んでいる。ところが高橋は、7月になると体調を崩し、快復しないうちに無理をして仕事をしたため、発熱下痢がひどくなり、うわ言を言うようになった。診察に当たったのは、石井と西洋医学所に学んだ隈川宗悦である。「石井隈川の見込も有之、覚悟致置候得共」(書簡24)、福澤の徹夜の看病の甲斐なく、8月15日夜四ツ時前(10時ごろ)に高橋が長逝すると、福澤の悲しみは深く、「落胆は恰(あたか)も兄弟を失った時のやうであった」(「福澤先生を憶ふ」)。

高橋の遺族のことを心配した福澤は、一夜明けて直ちに石井と、高橋の妻筆子の兄杉浦愛蔵( 譲(ゆずる)、郵便制度確立に尽力)らと、後事を相談した。この時、江戸には高橋の弟謙三(福澤書簡では「鑑蔵」がこれに当たると思われる)と妹愛子がおり、筆子は妊娠中であった。福澤たちは、謙三は宮津に帰って医家を立て、財産は石井の許嫁でもある愛子と、遺児の養育費に折半し、源助町の家と薬室の諸具は、遺児が成長するまで隈川に託すこととした(書簡24)。ほぼ同じ内容が、「家記」にも記され、さらに「寡者産後可自在」(「杉浦愛蔵伝」)と、産後、筆子は自由にしてよいことも取り決めたようである。

ところが、同年10月19日の隈川宛書簡には、「高橋死後も誠に言語道断▢▢、唯一個の遺腹子も死▢▢」(▢は判読不明)とあり、「失望の極に御座候」と福澤の落胆が窺える(書簡26)。筆子は、杉浦愛蔵の略履歴に翌年「二月妹筆子大帰ス」とあって杉浦姓に復帰した(「杉浦愛蔵伝」)。

高橋の死を知らせる福澤諭吉書簡 (部分)(福澤研究センター蔵)

妹愛子は、福澤の家を里(仮親)として、石井に嫁いだ。石井は、明治になってしばらくの間、蘭学者桂川甫周の娘みねを自分の家に引き取っていた。みねによれば、福澤は石井邸を頻繁に訪れ、「『世界国尽』なども、石井さんが脇から直したところもあるように聞きました。2人で仲良く相談してこしらえていらっしゃった様子で」、みねは、石井夫妻の子をおぶって、「世界は広し 万国は」と続く七五調の歌を世間に歌われる前から口ずさんでいたという(今泉みね『名ごりの夢』)。

石井が、大阪医学校校長兼病院長として転勤になった時も、福澤は、大阪にいる従兄の藤本箭山(せんざん)に、石井妻子の世話を頼む手紙を送っている(書簡103)。その後も両家の交際は続き、福澤から大阪の石井に宛てた書簡(書簡115)には、愛子から錦に手紙が送られたことへのお礼と、まだ返事が書けていないため、錦からよろしく伝えて欲しいとの伝言が書かれている。さらに、明治15(1882)年に石井が病死すると、福澤は、葬儀はもちろん、遺族の対応も一切を引き受けた。

筆者は執筆に当たり、高橋の故郷宮津を訪ねた。しかし、宮津には高橋の足跡も、郷土の人物として紹介する資料も見当たらなかった。木村は高橋を「洋学にも精通し後来有望の人なりける」と評した。高橋が長生きをしていたなら、どのような人物になっていたであろうか、そして後半生の福澤にどのような影響を与えたであろうか。高橋の早世が残念でならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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