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【福澤諭吉をめぐる人々】
大童信太夫

2021/02/26

仙台市博物館蔵
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

仙台藩中屋敷は、芝愛宕下(現在の港区新橋)にあり、敷地内に留守居役(仙台藩では公儀使(こうぎづかい)と呼ばれる)の建物3軒のほか、足軽小者の住居が60余軒もあった。その屋敷に高橋和喜次という少年がいた。安政6(1859)年、この屋敷に新しい留守居役がやってきた時、高橋は子どもながらに「今度の留守居役は大変に若くて、やり手だ」との評判を耳にしていた。その留守居役の名を大童信太夫(おおわらしんだゆう)といった。

気品の高い名士

大童は、天保3(1832)年11月、仙台に生まれた。家格は大番士(平士)、禄高は29石であったが、9歳の時に召し出されて児小姓となり、26歳の時、役料250石の公儀使に抜擢されて江戸に出府した(「履歴」)。

親孝行な人で、母親が亡くなってからは、毎月命日には必ず仙台藩の菩提所にある墓に参拝し、終わると寺の和尚と食事や碁などをする。この寺に奉公に出ていた高橋にも気さくに話しかけていた。高橋は、この頃の大童を「世の中の変遷にも一番早く気がついて夙(はや)くから、外国の事情を極めておかねばならぬという考えを持った目覚めたる1人であった。それで、洋学でもやろうという同藩の若武士(わかざむらい)たちにはことに目を掛けてくれた」と回想している。

大童は、英仏の学問をするために足軽の子どもを横浜に出そうと考えた。選ばれた高橋と鈴木六之助は、横浜に住み込み、ローマ字表記法で知られる米国人医師ドクトル・ヘボンの夫人に英語の稽古を受けた。また、大童は西洋式の歩兵調練を始め、撃剣や柔道の稽古を盛んにし、屋敷内に漢学校の順道館を建てた。一時期、館の教頭として教えていた玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)は、万延元年の遣米使節団に正使新見豊前守の従者として選ばれ、『航米日録』を残した異色の人物である。一時、中屋敷に帰った高橋は、屋敷の様子が一変したことに驚いた。大童を「蘭学者でもなければ英学者でもないけれども、とにかくに西洋文明の風を好み洋学書生を愛して楽しみにしているところは、気品の高い名士」と評する福澤諭吉が、大童と「ごく懇意に」(『福翁自伝』)なるのは、自然の成り行きと言えよう。

仙台市博物館には「大童家文書」として、福澤書簡をはじめ多くの大童信太夫関連資料が寄託されており、筆者は、大童自筆の日記「日程記」や自筆の「履歴」などをマイクロフィルム等で閲覧する機会を得た。「日程記」と福澤書簡を重ね合わせると、2人が親しく行き来し、会えなければ手紙を交わす様子が窺えるが、ここでは2つの知見のみ紹介する。1つは、福澤と大童の往来についてで、今回私の見た限りでは、文久3(1863)年の「日程記」9月17日に「福澤諭吉来」とあり、遅くともこの時点には往来が始まったことを確認できた。2つ目は、大童の手術後の横浜滞在期間である。大童は長く痔疾に悩まされ、福澤は書簡の書き出しや追伸に「其後御痛所如何」(書簡二八)などと記して、大童を気遣っていた。大童は、慶應2(1866)年6月になって横浜に赴き、3日ヘボンの執刀で切断手術を行った。福澤は慶應義塾に学んだ後、横浜に留学中の仙台藩士横尾東作に手紙を出し、「大童君其御地へ御出張、御治療御受被成候趣、御模様如何に候哉」(書簡三六)、と大童を案じた。「日程記」では、大童が暫く横浜に滞在し、毎日のように「ヘボン来」と往診を受けた末、7月10日に自邸に戻ったことが確認できた。術後の様子は良好で、その後の福澤書簡では、痔疾に触れる文は一切なくなる。

福澤は、中津から呼び寄せた小幡篤次郎ら6人を養うための金策として、大童の命で横尾が購入した毎週土曜日発行の英字新聞ジャパン・ヘラルドの翻訳を請け負った。「外国の事情を極め」たい大童にとっても、福澤の提案は望むところであったに違いない。また、仙台藩が購入した原著のうち十五尹(インチ)砲の部分を福澤が翻訳したのが『海岸防禦論』で、斥候(ものみ)の方法や野戦砦の築き方などが書かれたポケット版戦術書『兵士懐中便覧』は、「仙臺蔵版」の朱印があるため、大童が福澤に翻訳を依頼し出版したと考えられている。

慶應2年の暮れ、福澤の2度目の渡米が決まると、2人の往来、手紙のやりとりは、一層活発になる。福澤は、仙台藩から大金を預かり、米国での武器買い付けを請け負ったのである。福澤が帰国し、鉄砲洲に戻った翌日には、大童が帰国祝いの鮮魚を届けている。翌日、福澤は筆を執り、「反覆熟考之上、砲類買入レ之義ハ断然見合セ申候」(書簡四二)と報告する。福澤は自己資金に和歌山藩、仙台藩から預かった大金で大量の洋書を購入して持ち帰った。ところが、洋行中に不都合があったとして、福澤は謹慎を命じられ、書籍は差し押さえとなった。この荷物が戻されたのは翌年になってからで、その内、仙台藩のための書籍は42部、779冊に及び、その内訳は『漢学養賢堂蔵洋書目録』(養賢堂は仙台藩学問所)として伝えられている。書籍の引き取りができた時機を見て、福澤が大童に送った預り金精算の「覚書」(慶應4年3月13日付)には、出航前の1月に2500両を預かり、諸経費も含め書籍代に1510両余りを使い、残りを返金することが記されている。

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