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【福澤諭吉をめぐる人々】
大童信太夫

2021/02/26

大童の家の飯を食わないものはない

勝麟太郎(海舟)の子息小鹿(ころく)の米国留学が決まり、勝の塾で学んでいた仙台藩士富田鉄之助が随行に選ばれた。勝から話を受けた大童は、富田を留学させ、仙台藩から学費年1000両を支給するようにした。横浜に修業に出ている少年たちも行かせようとの話になるが、鈴木は良いが高橋は行状が悪く問題となった。中屋敷に訪ねてきた高橋から事情を聴くと、大童は、「とにかく横浜に行って待っておれ」と伝えたという。福澤の帰着から1月後、高橋を含めた勝小鹿一行は、福澤が乗船した定期郵便船コロラド号に乗って横浜港を出港した。福澤は、「大童も大藩の留守居だからずいぶん金回りもよかったろうと思われるに、絶えてそんなばかな遊びをせず、ただなんでも書生を養ってやるというのがおもしろくて、書生の世話ばかりして、およそ当時の仙台の書生で大童の家の飯を食わないものはなかろう」(『福翁自伝』)と評し、明治44年刊の『仙台戊辰史』は、「俊才ノ訪ヒ来ルモノ絶ユルコトナク信太夫ハ自ラ衣食ヲ節シテ之ヲ養ヒ他日国家有用ノ器ナラシメンコトヲ計レリ」と記録する。この時渡米した富田鉄之助は後に第2代日本銀行総裁に、鈴木六之助(のち知雄)は日本銀行出納局長になった。高橋和喜次は内閣総理大臣となる高橋是清である(高橋の回想は『高橋是清自伝』より引用)。さらに横浜に留学させた大槻文彦は日本最初の国語辞書『言海』を完成させ、横尾東作は硫黄島への探検航海を成し遂げて「東洋のコロンブス」と呼ばれるなど、大童が世話した者たちは、後にそれぞれの道で大成していく。

慶應4年になると、いよいよ事態は切迫してくる。大童は3月に上府御免となり、一旦帰郷するも、江戸藩邸の処分のため江戸に戻り、勝海舟を訪ねて屋敷の譲渡や幕府からの軍艦購入の件を取りまとめた。『仙台戊辰史』によれば、大童は、上屋敷の宝物、陶器などを没収前に仙台へ回漕する船に積み込み、土佐藩への引き渡しの直前に屋敷に火を放って、勝の屋敷に逃げ込んだ。それより前、仙台藩の周旋方小野清が大童の紹介状を持って福澤を訪ねた。紹介状の差出人鹽竈(しおがま)生は大童のこと(中屋敷に鹽竈神社がる)、宛名神仙座様(新銭座)は福澤の匿名である。福澤は奥羽越列藩同盟に傾く仙台藩を「大勢に反抗するといふのは無益なことだ、速くああいうことはやめる方がよい」(『福澤諭吉傳』)と言ったという。小野は帰仙すると、奉行(家老職)但木(ただき)土佐、坂英力らに藩の方針の非を説いたものの、その時点では最早、同盟をやめる訳にもいかず、9月になって官軍に降伏を申し出るに至った。それまで藩論をリードした但木、坂は斬首に処され、玉蟲らは切腹を命じられた。仙台に戻り、黒川剛と改名の上、出入司(しゅつにゅうつかさ)(藩財政の最高職)に任命されていた大童も間もなく免職に遭う。身の危険を察知した大童は仙台を脱出し、同じく但木の参謀役とも言うべき松倉恂とともに行方をくらませ、藩から家名断絶、家禄没収の達しを受けた。

生涯変わらぬ交際

東京に潜伏した大童は、麻布広尾町に居住し、福澤には居所を知らせ、福澤の家も訪ねていた。そして明治3(1870)年、腸チフスからの病み上がりにもかかわらず、見舞いに訪ねて来た大童、松倉を救うべく奔走する福澤の姿は、『福翁自伝』に詳しく語られている。その甲斐あって、出頭後、禁錮1カ月ほどで許された大童は、その後、黒川剛のまま大蔵省、文部省、内務省、警視局と出仕し、明治11年には宮城県牡鹿郡長に任ぜられ、宮城に移転、さらに宮城県内の郡長を歴任した(「履歴」)。この間、「今日に至るまでも、もとのとおりに交際して互いに文通しています。生涯変わらぬことでしょう」(『福翁自伝』)と言うように、大童は自らの動静を福澤に知らせつつ進物を贈り、福澤は大童の転勤に祝辞を贈るなど、住まいや立場が遠く離れても2人の交際は絶えることがなかった。

福澤は、長くこの大童救出劇を表にすることはなかった。『時事新報』の「雑報」に「世人をして天下反逆の謀主と呼ばしめたる者は仙台藩の大童信太夫氏なり」と、維新前後の大童の活躍を紹介したのは、大童が特赦により家名復興を許され、黒川剛から復称した直後の明治22年5月のことである。こうして、大童の長い明治維新が漸く終わりを告げたのである。また、『時事新報』に連載中の「福翁自伝」に大童との交流のくだりが掲載された日には、病中の福澤に代わって執事の伊東順四郎が大童宛に書簡を送り、福澤が話の中で「貴下之御人物御気品を頗る賞揚せられ」、「貴下の名声高く広く世に顕らわれざるを遺憾」としていたことを伝えている。大童は、福澤が亡くなる直前の明治33年10月、東京で病死した。大童が病気と聞いた福澤は、病後の身を押して、大童を親しく訪問し、病気を見舞ったという。

明治42年刊の『仙台人物史』は、大童が牡鹿郡長に適任かを書面で問われた福澤が「大童ノ大才ヲ以テ区々タル郡長トナスハ余其適否ヲ知ラス若シ任スルニ県令ヲ以テセハ或ハ可、更ニ之ヲ参議トナサハ断シテ其適任ナルヲ保証セン」と答えたと記録する。これが事実ならば、福澤の大童に対する最大級の賛辞と言えよう。

仙台藩中屋敷跡に残る鹽竈神社

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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