【福澤諭吉をめぐる人々】
山田 季治
2025/06/18
声なき時代をこえる
その創刊広告に記されたように、ジャパン・タイムスの1つの使命は、日本人の意思や考えを外国に発信することにあった。
それまで、日本の情勢を外国に伝えてきたのは居留地で外国人が発行する英字新聞であり、その論調は、外国人の対日観の形成に少なからず影響を与えていた。自らも文明国の一員であることを示そうとしていた当時の日本において、外国人に依存しない、自立した情報発信機関の設立は、政府内外から求められていたものだった。
そうしたなかで、山田たちをさらに突き動かしたのは、明治32(1899)年に予定されていた、外国人内地雑居の解禁という時代の変化だった。国内にはなお根強い排外的な言説もあるなか、創刊号の社説"Our "Raison d’Etre"(本紙存在の意義)」は、日本に暮らす外国人の増加を見据えて、次のように訴えている。日本語は外国人にとって極めて難解であり、従来の日本語メディアでは必要な情報が十分に伝わらない。だからこそ、英語で日本の制度や文化を丁寧に説明し、日本人と外国人との間の壁を取り除くことこそが、この新聞の存在意義なのだ、と。
こうして時代の機運を鋭く捉えて創刊されたジャパン・タイムスにおいて、「英語英文を研究せんと欲する人には必読の新聞なり」とする宣伝文句もまた、時代の学習熱を色濃く反映するものだった。
新聞に英語教材としての役割を求める声はすでにあり、例えば明治20年1月8日の時事新報には「新聞社に望む」と題する投書が載った。外国人と接する機会の増えた当時において、英語の習得は不可欠であり、新聞にも英文を載せてほしいという内容である。同月31日にはそれに賛同する投書もあり、「先づ初めは日用器具類の名詞を雑報に挿入し追々に日用の各語を挿入せんと祈るものなり」といった具体的な提案が寄せられている。
こうした英語学習熱は、日清戦争の勝利を経てさらなる高まりを見せ、まさにその最中に登場したのが、ジャパン・タイムスだった。この期待を自覚していた同紙は、教育機関や学生を対象に購読料を2割引とするサービスも展開している。
もう1人の創刊者
季治はジャパン・タイムス社を設立するにあたり、日本郵船の退職金をその資本に充てた。しかし、それだけでは到底足りず、資金の調達に奔走したのが福澤である。明治29(1896)年7月、福澤は岩崎弥之助に「時機は今正に熟して、或は已(すで)に後れたり」と、英字新聞発行の重要性を説く書簡を送り、協力を取り付けている。その後、三井、三菱、日本銀行、横浜正金銀行、日本郵船などからも出資を得られたという。印刷機の準備も福澤の支援によるものである。
それからも福澤はジャパン・タイムスの経営を支えようとした。創刊の翌月には時事新報がロイター通信と結んでいた特約を引き継がせ、各新聞社がジャパン・タイムスを通じてロイターの記事を購入する仕組みを整えた。また『福澤全集緒言』『福澤全集』『福翁自伝』など、晩年の著作は同社に印刷させて、収益面での後押しを図った。
ではなぜ、福澤はこれほどまでにジャパン・タイムスを支援したのか。それは彼自身が、英語を用いて「日本」を世界に伝えることに強い必要性を覚えていたからにほかならない。
例えば明治17年1月、福澤は、自身の著書『民情一新』を英訳してアメリカで出版することを、留学中の次男・捨次郎に提案している。その書簡の中で、翻訳出版を思い立った理由を「第一は外国人をして日本国の事情を知らしめ、第二は日本学士の思想を示し、又第三には日本人が書を著はすに日本国の看客のみを当にせずして外国人の所評に訴るとあれば、不文なる日本人も次第に学問を重んずるの心を生ずべきやに存ずればなり」と記している。
この試みは実現に至らなかったものの、同年11月に日原昌造に宛てた書簡では「今にも金さへあれは北米桑港に出掛けて、日本之事情を写す横文新聞を作度とも思ふ事なり」と述べ、英字新聞の構想を語っている。
さらに明治20年8月30日の時事新報には「洋字にて日本新聞紙を発行すべし」と題する社説を掲載。「西洋諸国の人が漫(まん)に我日本を軽侮するは日本国の軽きに非ず其実は日本を知らざるの罪と云ふべきのみ」だから「我日本人が横字新聞紙を発兌して文明国人の眼に日本国の事情を明にするは最も容易なる方便にして其効力必ず大なるべし」と訴えている。
このように福澤は、長年にわたり英字新聞の必要性を説き続けてきた。その心ざしが、やがて季治の行動を後押しし、ジャパン・タイムス創刊という形で実を結んだ。明治34年2月3日、福澤が世を去ると、ジャパン・タイムスは翌々日に追悼文を掲載。創刊の恩人への敬意を静かに記した。
心ざしの、その先へ
多くの期待を背負って出発したジャパン・タイムスだったが、在留外国人の多くは外国人編集者によって発行されたジャパン・アドバタイザーやジャパン・クロニクルを好んだため、想定していた外国人読者層を十分に取り込むことはできなかった。購読料と広告収入の低迷から、運営は次第に厳しさを増していった。
その苦境を救おうとしたのは、対外発信機関を必要とする外務省だった。明治42(1909)年5月、季治は外務省を訪れ、すでに受けていた資金援助の継続を取り付けている。
季治はその翌々年に社長を退き、大正5(1916)年12月、68歳でその生涯を閉じた。だが、日本と世界の懸け橋になることを心ざしたその新聞は、戦前・戦中・占領期の激動を経ても絶えることはなく、今年、創刊128年を迎えている(現在の邦文表記はジャパンタイムズ)。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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