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【福澤諭吉をめぐる人々】
伊藤欽亮

2022/12/07

慶應義塾福澤研究センター蔵
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校主事・福澤研究センター所員

『時事新報』を発行する新聞事業は、福澤諭吉が手がけた重要な事業の1つであった。今回取り上げる伊藤欽亮(きんすけ)は、慶應義塾で学び、『時事新報』の一時代を担った後、日本銀行勤務を経て自ら新聞社を買収し新聞事業を手がけた人物である。

生い立ち

伊藤欽亮は、安政四(1857)年8月4日、萩藩士伊藤市右衛門の末子(次男)として生まれた。市右衛門は藩校明倫館で教鞭を執るなど篤学の人であったというが、欽亮誕生の翌年に40歳で没している。欽亮は幼名を彌五郎といい、頑健で活動的であったが、他人と争うことがなく、物事を丁寧に扱う子どもであった。15歳で同藩の林家に婿養子に入り林姓を名乗り始め、やがて子・隆太郎が生まれた。

欽亮は藩校明倫館で学び始め、上京して攻玉社に入った後、明治10(1877)年6月に慶應義塾に入塾した。塾の同級生によると、算盤が得意で数学の成績は満点だったという。当時は塾内で言論を戦わせることが活発で、犬養毅村井保固(やすかた)らと結成した猶興社では巧みな弁舌を披露し目立っていた。

この頃、林家の養父との関係が悪化したため離縁し、伊藤姓に復した。12年4月に卒業した後、『静岡新聞』、長崎の『鎮西日報』で筆を執り、18(1885)年に『時事新報』の記者となった。同紙の中核を担っていた中上川彦次郎社長が山陽鉄道社長に就任した後は『時事新報』の編集を担った。

『時事新報』時代

明治19(1886)年、伊藤は赤川英三と共に「報告書」300部を許可なく新聞社や銀行に送付したことが新聞紙条例違反にあたるとして、軽禁錮8カ月、罰金30円の刑に処せられた(『東京朝日』)。刑の長さから、単なる無許可(最大軽禁錮6カ月)だけでなく内容が治安妨害にあたると疑われたものと思われる。翌年5月の出獄の際、福澤は伊藤のためにお金を用立て、岡本貞烋(ていきゅう)に伊藤への助力を頼んでいる。監獄生活で疲弊した伊藤は、懸命に勉強しようとするが、しばらく衰弱した状態が続き、福澤はその心身の不調を心配した。

同年7月、様子を見ていた福澤は、中上川が抜けた後の『時事新報』の「総編集」を伊藤に任せた。その後、福澤は坂田実を会計に据え、伊藤・坂田に時事新報社の経営を任せ、独立して生計を立てられるように計らうことを決めた。実際に、交詢社の隣接地が売り出された際には、社宅用に購入し伊藤をそこに住まわせるように動いている。

さて、10月になって、若手記者の石河幹明と渡辺治が社内で伊藤に異議を唱え始めた。若手の不満は権力が編集に偏り、自分たち記者は「労して功なき」という点にあった。その際若手が「穏やかならざる言葉を吐き」、社内に不穏な空気が漂った。事実上の社主である福澤は、「渡辺も石河も文章の拙なる者」と二人を酷評し、「役に立たない少年は不用」と経営に従事する伊藤の側に立った。対立は福澤の説得により収束した(『福澤諭吉書簡集』六)。

福澤の見立てでは、伊藤は年長なだけでなく、知恵があり、颯々(さつさつ)と物事をこなし勉強熱心であった。当時、記事を隅々までチェックしていた福澤は間違いなどを見つけると烈火のごとく怒ったというが、総編集の伊藤がそれを一手に引き受けて黙って聞き、一切の弁解をしないので、ますます福澤からの信頼は深まった。福澤が執筆する社説の振り仮名は、独特な福澤流を理解している伊藤が常に担当したという。

時事新報時代の伊藤は、午前11時頃出社し、交詢社で読書し、夕方原稿が揃うと給仕が呼びに行き、戻ってくると深夜12時頃まで編集の仕事をするという毎日であった。坂田が幼稚舎長に転出してからは会計も担当した。日本初の輪転印刷機を導入した際には、自らの調査をもとに職工を指揮して、組み立てから設置までやり遂げた。また、記者として執筆する記事に長い論文調はほとんど見当たらず、短評で鋭く風刺することを得意としていた。

長州出身のためか伊藤博文との人脈があり、記者として重要な情報を得るだけでなく事実上の幕僚として動いていた。しかし、それで藩閥批判が鈍らないのが伊藤の芯の強さであろう。日清戦争報道ではその人脈を生かしてスクープをものにし、部数拡大に貢献した。福澤も伊藤の働きを評価し、27年末の賞与は破格の千円を支給し、翌年の年俸は三千円に跳ね上がった。

時事新報編集局員写真(慶應義塾福澤研究センター蔵) 前列中央が伊藤。中列左から3人目が坂田、右端が石河、 後列右から2人目が岡本。
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