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【福澤諭吉をめぐる人々】
村井保固

2020/10/28

福澤研究センター蔵
  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾女子高等学校教諭

幕末に3度洋行して多くを学んだ福澤は、海外に行く門下生を積極的に支援した。今回取り上げる村井保固(むらいやすかた)は福澤の紹介でニューヨークに行き、当地で活躍する一方、福澤から信用され、福澤が送り出す数々の門下生をニューヨークで支援した。次第に広がる社中の輪を海外で支えた人物である。

福澤門下生との出会い

村井は安政元(1854)年9月、伊予国吉田(現愛媛県宇和島市)の、吉田藩士林虎市の二男として生まれた。名は三治といった。明治2(1869)年には同藩村井林太夫の未亡人、光の養嗣子となり、翌年、保固と改名する。

廃藩置県によって主家を失った村井は、養母と相談する中、差し当たり2年も勉強すれば学校の教師にはなれる、教師になったら1カ月5円の俸給をもらえて生活には困らない、じゃあ教師になろうということになった。

村井が入学した吉田の時観堂学校は、主に漢学、2年経つと翻訳の物理学や地理学も学ぶという学校であった。そこに西園寺公成という、神山県(吉田は神山県の管轄)の学務委員がやってきて、ちょうど左傳(『春秋左氏伝』)を学んでいる時であったが、いまどき漢学とは古い、ドンドン翻訳書を読めという。村井は試しに翻訳書を読んでみるが、全然分からない。先生に聞いても要領を得ない。この上は別の学校で学ぶしかないと思い立って、明治6年1月に設立されたばかりの宇和島・不棄英学校の門を叩いた。

不棄英学校には、中上川彦次郎が英学の教師として招聘されていた。『村井保固伝』によると、中上川は村井たち学生に、「自分は何時までも地方の学校教師などをしている積りはない。洋行する学費をこしらえに来て居るのだ。諸君も宜しく東京に出て慶應義塾の福澤先生に就いて学びたまえ」と述べたという。事実中上川は、同校制度の整備、学校運営の指導といった責務を果たすと7月には帰京し、不棄英学校も同年9月にあいにく廃校となってしまう。

そこで村井は広島の英学校に移るが、簡単な英単語の発音練習をするばかりで満足できない。すると、松山に福澤門下生の草間時福(くさまときよし)が校長を務める学校(松山英学所、後の松山中学)が出来たというので、そちらに転校した。この学校では、英学だけでなく、演説や討論会も重視され、村井は好んで討論に参加したという。福澤は「慶應義塾を西洋文明の案内者」(『福翁自伝』)にするべく、明治初年に門下生を英学教員として各地に派遣したが、村井は福澤のそうした啓蒙活動の中で育った1人だったといえよう。

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