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【福澤諭吉をめぐる人々】
村井保固

2020/10/28

東京へ、そしてニューヨークへ

明治10(1877)年2月、村井は東京に行く決心をする。慶應義塾に入学するためである。しかし、憧れの慶應義塾も、入学してみると些か想像と違う。学生に気概がないように見える。そこで村井は演説会の演壇に立って、塾風刷新を訴えた。これが多くの共感を呼んだようで、犬養毅や尾崎行雄といった将来の大政治家たちと親交を深めるきっかけとなった。彼らは猶興社という演説・討論グループを立ち上げて、日ごとに議論を深めていった。

このまま政治の道を進むかに見えた村井だが、実業の道を選ぶことになる。卒業間近の明治11年秋には、演壇に立って、「吾々新教育を受けた青年は宜しく奮って商業界に入り、国家将来の発展に努力しようじゃないか」と訴えた。すると福澤がこれを大いに褒め、就職先を世話してくれることになった。

村井の、「小店で丁稚生活から始めていく所に入りたい」という希望を聞いた福澤は、森村市左衛門の依頼を紹介する。市左衛門は福澤を信奉していた人物で、「独立自営」の旗印を掲げ、官の援助を受けない企業経営を目指す実業家であった。この時は日本の雑貨をニューヨークに輸出する貿易商社・森村組を立ち上げたばかりで、ニューヨークでは弟・豊がその雑貨を扱う小売店(モリムラ・ブラザーズ)を開いていた。市左衛門は豊を助けられる人材を探しており、健康で英語は達者、簿記もできる人物を推薦してくれないかと、福澤に依頼していたのである。

ところが村井の回答は、「語学と簿記は不得手の方ですが」というもの。福澤は、「実業家を志しているものが、其辺の支度が出来ていないとは言語道断だ」と激怒する。それでも村井は、「米国へ人を遣るのに只英語と簿記を条件で人を採るとは可笑しいですね、一体先方は左様な小手先の利く小物が欲しいのか、それとも将来森村組を背負って立つ大黒柱になる人を求めるのではないでしょうか」と食い下がった。随分大胆な切り返しと感じるが、そういう意気込みこそ福澤の好みかもしれない。福澤は「面白い」と言って機嫌を直し、森村組への入社も決定した。明治12年9月には福澤が準備してくれた旅券を手に日本を発ち、翌月、ニューヨークに到着する。

森村を支える

ところで村井と豊は同い年で、共に慶應義塾を卒業している。豊は村井の到着を楽しみにしていたであろう。しかし、豊は初め村井に失望した。英語と簿記が出来ないからである。豊は市左衛門に対して村井の採用を批判した。

しかし、村井は一所懸命の働き者であった。英語が通じないなら身振り手振りで商品の魅力を伝え、その熱と愛嬌が客を惹きつけた。「御得意に失望させない」というのが村井のモットーで、客が来なければショーウインドウを磨き、飾り付けを直して、客が心地よく買い物できるよう準備する。当時ニューヨークではまだ日本人が珍しく、信用もない。必死で地歩を固めようとする草創期のモリムラ・ブラザーズにあって、信用の獲得を第一に考える村井の接客はまさに必要とされていたものであり、気が付けば村井は、豊の重要なパートナーとなっていた。弱気になった豊が閉店を考えた時に発破をかけたのも村井だった。

事業も軌道に乗ってきた頃、モリムラ・ブラザーズは現状維持の小売でいくか、それとも卸売に転換するかを検討していた。やっと経営を安定させた豊は大きな変化を嫌った一方、村井は利益を拡大できるとして後者を推した。裁定は東京の市左衛門に委ねられ、卸売への転換が決定する。卸売が成功すればより多くの外貨を獲得でき、国のためになるという攻めの決断であった。

しかし卸売には当然、売れ筋を予測して仕入れたのに売れず、在庫が大量に発生してしまうというリスクもある。そこでモリムラ・ブラザーズは、そのリスクを回避すべく、村井と豊が交代で日本に帰国することにした。アメリカ市場のニーズを知る人物が日本に帰って直接仕入れをすれば、大きな損失は出さないという考えだった。村井の、82年の生涯で日米往復90回という記録は、こうした企業戦略の元で樹立されたものである。

こうして二人三脚、時には対立しながら歩んできた村井と豊であったが、明治32(1899)年7月、豊が46歳の若さで亡くなってしまう。森村組全体が悲嘆に暮れる中、豊に代わって新たな支配人に任命された村井は、積極的な采配でモリムラ・ブラザーズを引っ張っていく。

例えば、ライバルの関西貿易会社が明治35年に解散した際には、同社のスタッフを雇って主要ポストで起用した。この人事には古参社員からの反発があったものの、アメリカ市場をよく知る同社スタッフの経験を得れば、より的確な仕入れを実現できると考えて押し切った。アメリカ人のカイザーは同社で簿記をしていた人物だが、村井が引き入れてセールスマンに抜擢すると、日本人にはない観察眼で市場を捉え、大活躍した。

その後村井は、ニューヨークを拠点にしながら森村組本体の経営にも幅広く参画した。森村組が輸出陶器の自社製造に乗り出した際には、技術習得のための欧州視察に参加し、その製造を担う日本陶器(現ノリタケ)が設立されるとこれに出資している。また、明治42年には村井の指揮のもと森村組の規約が制定され、自身は総支配人(総長・市左衛門の次席)に就任している。市左衛門と大倉孫兵衛(日本陶器社長)が対立した際には、村井が仲裁に入って森村組の空中分解を防ぐということもあった。まさに有言実行、森村組を背負って立つ大黒柱となったのである。

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