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【福澤諭吉をめぐる人々】
村井保固

2020/10/28

社中を支える

太平洋を股に掛けて忙しく動き回る一方、村井は慶應義塾の社中でも大きな役割を担った。アメリカ、特に東海岸に来る福澤門下生への支援を献身的に行ったのである。最も有名なのは、一太郎・捨次郎が留学した時のことであろう。2人の渡米に同行したのが一時帰国していた村井で、2人がワシントンに行った際も付き添っている。また、2人の留学資金はモリムラ・ブラザーズが立て替え、のちに福澤が入金する仕組みになっていた。一太郎・捨次郎に福澤が手紙を送る際には、合わせて村井にも送ることが多く、福澤は息子たちへの支援に感謝している。2人の留学が終わった後も福澤と村井の交流は続き、村井が報告したアメリカ市場の景況が「時事新報」に掲載されることもあった。

その他村井は、福澤門下生の高島小金治、高橋義雄、福澤桃介や、福澤と親交の深かった浜口梧陵らをニューヨークで支援している。海外に行く彼らも、送り出す福澤も、村井がいるから安心という心持ちであっただろう。なお村井は、日頃から他者に尽くすことを信条としていたようで、塾員に限らずとも多くの日本人を当地で助けたことを付け加えておきたい。

故郷へのエール

昭和11(1936)年2月、村井は慶應病院で亡くなった。大勢の見舞いがあった中、故郷の吉田から有志代表が遥々来たこともあった。すると村井は、故郷の若者たちへの想いを語り始めた。「人間は苦労をする必要があり、人が経験した苦労はいつ迄も、其人を守り其人の人格に光りを添え、其人の成功を保証する」「何処に働いて居っても、故郷を忘れることはいけない」。

異国の地で長く奮闘した村井は、故郷を深く愛していた。昭和3年に宇和島商業学校で行った講演では、「命のない学問をして学校を出た人は何事をやっても成功しない」と学生を鼓舞し、「他力を頼まず己れの力を恃んでやる所に生命がある」と主張した。随所に福澤や市左衛門の影響を感じさせる、熱のある言葉が並んだ。

なお吉田には現在、村井が昭和元年に設立した村井幼稚園がある。村井の愛郷心はいまも故郷に息づき、子供たちの成長を見守っている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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