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【福澤諭吉をめぐる人々】
伊藤欽亮

2022/12/07

日本銀行へ

その後、伊藤は新聞記者から実業界へ転身する。これは日本銀行総裁就任を打診された岩崎弥之助が福澤に相談し、日銀に知己がいないことで逡巡したため、福澤が伊藤を連れていくことで就任を勧めたことによる。

明治29(1896)年12月、伊藤は日銀副支配役に就任した。年俸千五百円であった。発行局長や文書局長を歴任し、岩崎、山本達雄両総裁には懐刀として重用され頻繁に重役室に出入りしていた。伊藤は博識で「海軍通」であり、日銀の午餐会は伊藤の海軍談義で独占されていた(山名次郎『偉人秘話』)。また、31(1898)年2月から10月にかけて欧米諸国の銀行業務視察を命じられたが、新聞事業も調査研究していたようだ。

その後、大蔵省の松尾臣善が総裁になったことで事実上の重役扱いは終わり、しだいに伊藤の能力が発揮される場がなくなっていった。結局、39(1906)年5月、病気を理由に日銀を退職した。事前に相談された前総裁の山本が、将来の重役の道が見えているからと慰留したところ、伊藤は、「日銀に入ったのは最初から腰掛けであって、自分の志は新聞社の経営にある」「『東京日日新聞』か『日本』、もしくは交渉次第では両紙が手に入るが、『東京日日』は金がかかりすぎるから『日本』を引き受ける」と明言した。やはり日銀入りは福澤の依頼であり、彼の本意ではなかった。

『日本』新聞の買収

その後、陸羯南(くがかつなん)が創刊した『日本』新聞社を買収し、経営に乗り出した。買収の資金源は、貯蓄だけでなく、友人と投資した鉱山からの利益8万円だったといわれる。伊藤は各紙に掲載した社告で「欧米の有力なる新聞紙に追随せんことを期す」と抱負を述べ、時事新報社経営の経験を生かし、他の資本を入れず、「自己の所信に由って進まんのみ」と独立路線を宣言した。

しかし、以前の政治と文芸に特化した格調高い文面とは異なる伊藤新社長の大衆路線の紙面改革に社員は反発し、やがて衝突した。結局、三宅雪嶺主筆を筆頭に記者22人が退社する事態になった。退社に際して記者らは伊藤を「無力、無能、無識」と悪しざまに罵った。彼らは雑誌『日本人』を『日本及日本人』と改題し、『日本』新聞の正統な後継であることを主張した。

残された伊藤は、全くあきらめる様子なく、紙面の編集から組版の手配まで行い、一人で新聞を発行する気概であった(高野生「故伊藤欽亮先生を偲ぶ」『ダイヤモンド』)。その後、人材も新たに雇い、経済論に力をいれて筆をふるい、桂内閣の公債発行を非難し撤回させたこともあった。

伊藤はその後、朝吹英二や池田成彬などの慶應出身実業家の力を借りて『日本』新聞を経営したが、大正3(1914)年末の放火による社屋火災で経営に打撃を受け、廃刊を余儀なくされた。山本達雄は、必ず成功すると思っていた伊藤の新聞事業が失敗した要因として、政治新聞だった『日本』の読者にとって、伊藤の得意とする経済論が好まれなかったことが大きいと分析する。

その他、経営者としては千代田生命保険、日本製粉などの取締役を歴任した。また、『日本』新聞記者を経て経済誌『ダイヤモンド』を創刊した塾員の石山賢吉の依頼を受け、同誌の監修を担い、亡くなる数カ月前までの14年間、月3回のペースで記事を執筆し続けた。

福澤・慶應義塾との関わり

慶應義塾は、明治22年から大学部設立を目指し資金を募集した。その際、中上川彦次郎と伊藤は、福澤の意を受け、水面下で宮内省に恩賜金の下賜を働きかけた。中上川は品川弥二郎御料局長官に依頼し、伊藤は山県有朋首相を説得した。その結果、「多年人材を教育し功労少なからず」として千円が下賜された。福澤は山県と品川に礼状を出すだけでなく、身内に広く伝えており、大学部設置実現の手応えに喜びを隠さなかった。

その後も伊藤は慶應義塾の評議員や理事を務めるなど、慶應義塾の経営にも参画し、医学部設立の決定にも関与した。

あるとき福澤は「伊藤は豪傑だよ」と表現した。穏やかな人柄だが、長州閥の中にいながら藩閥批判を貫いたことや、憲政擁護運動の際に桂内閣を批判した論鋒の鋭さに豪傑ぶりが現れているといわれる。伊藤は夜通し話しても話題が尽きないほどの話し好きで、交詢社では講釈と伊藤公をかけて「伊藤コーシヤク」と呼ばれていた。

その一方で人情味があり、『日本』新聞社の火災で亡くなった職工の家を心配し、様々に工面して弔慰金を遺族に贈った。遺族が喜んでいたと報告を受けると、安心しつつも後々まで遺族のことを気にしていたという(『伊藤欽亮論集』下巻)。また、長州人脈を使った立身出世を望まず藩閥批判を貫いた理由として、福澤から受けた独立自尊の教育が強く影響したとみる人もいる。

伊藤が見る福澤は、「聡明な人」であった。また、平民的な所があり、田舎の人の長話につきあって最後まで聞いた後、次の用事に慌てて向かい「忙しい」と愚痴を言っていたと回想する。そして、金の貴さを口にするが金儲けの狙いはないから「先生は元禄武士なり」という(『福翁訓話』)。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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