【三人閑談】
忍者とはなんじゃ?
2024/10/21
忍者の情報探索
原 情報探索をするには、諸国を練り歩く必要がありますよね。江戸時代は、そのために往来証文が必要でした。そういう文書を作ってもらうための許可が出やすいのは、お参りに行くとか、修行するとか、商人もそうですね。そういう全国を渡り歩いてもおかしくない職業がありました。
おそらく忍者と目されるような人が修験者に化けるのは、隠れみのとして最適だったからです。諸国を回る六十六部(ろくじゅうろくぶ)というお仕事もありました。
高尾 旅をする宗教者の中にはちょっと怪しげな人もいて、いわゆるドロップアウトした人たちですが、忍者はその中に混じっていました。廻国するのに好都合だったのですね。
原 修験者は修験者で、山林の中で一定期間修行するので山道をよく知っていました。今のように登山道が整備されていないので専門職になり得たのですね。走ること、歩くことに特化して訓練すれば、20キロを1時間で移動することもできました。
高尾 体力的にもそうだし、安全な道を知っているということもありますよね。ちなみに米沢藩に忍者はいなかったのでしょうか。
原 謙信に関わる軍記物には、「夜盗組」「伏齅(ふしかぎ)」という忍者が出てきますが、実態はよく分かりません。米沢藩の職制にかかわる文書に、「伏嗅組又夜盗組トモ云」と出てきて、大坂冬の陣で結成され、夜に忍んで探索したことは間違いありませんが、その後は火事の火元や祭礼の喧嘩口論を調べたり、便利屋の側面が強く、形骸化したのかもしれません。
高尾 これは忍者の定義の問題になるのですが、所謂(いわゆる)御目付も情報を取りに行くことがありました。御目付はもちろん忍者ではないのですが、忍者学では「情報探索」という概念も研究テーマになります。米沢藩も情報は要らないということはなかったはずなので、そういう役割はいろいろな職に散っているはずなんです。
原 先ほど夜盗組の名前が出ましたが、文書レベルでは伊達氏や上杉氏の家臣の中にもいたとはされているんです。例えば、宮島誠一郎文書にも「周旋方(しゅうせんがた)」が出てきます。幕末はいろいろな藩で情報収集する者がいたと思うのですが、史料でそれを証明するのは難しい。
中條政恒という安積(あさか)疏水を造った人がいますが、彼らも周旋方としていろいろな藩を訪ねては人と会い、情報を聞いたり、交渉事を担ったりしていました。それは忍びとは違い、顔と顔を突き合わせて情報を取ってくる役目だったようです。こうした役目は江戸の藩邸にも普通にいました。
高尾 なるほど。情報を取るために専任の者を雇うかどうかであって、いろいろな職にある人がそれぞれに情報を取りに行っていたのですね。もちろん、組織である以上は情報を取らないと成り立たないわけですが。
原 おそらく専門の役目は米沢藩になかったと思います。ですが、米沢藩では宗教者にせよ芸能者にせよ、外から入ってくる者には1泊しか滞在を許さなかったんですよ。
高尾・凛 へえー。
原 それはもう徹底されていました。該当する職業も法令で細かく定められていました。鉱山を掘る人とか、芸能者とか、「こういう者は1泊までしか許さない」と。それは情報探索対策だったのかもしれません。
高尾 忍者に伝わっていた情報探索の方法を繙くとさまざまな工夫が見えてきます。例えば、敵方の屋敷に忍び込む時は腹痛を装って担ぎ込まれろとか、その土地のなまりを学んでそのとおりに話しかけてみろといったことがいろいろ残されています。
原 歴史を見る上で大事だと思うのは、ヨーロッパでも日本でも中国でも、政権が最初にやることの1つとして道を造るじゃないですか。これは人馬の移動も大事ですけど、情報伝達を一番大事にしているためですよね。江戸時代で言えば東海道になりますが、宿場町の大きな役目はやはり情報伝達ですよね。
あいまいな忍者という存在
凛 拙者は民俗学に明るいわけではないのじゃが、宮本常一殿の『忘れられた日本人』を読んで、その最初のほうに出てきた話がほんに印象に残っており申す。何でも、村での話し合いは何日もかけて行うとあるのじゃが、その話し合いは「はい、いいえ」で結論を出すのではなく、皆が納得するまでなんとなく話してその場が盛り上がるという。そして、とくに結論付けないまま話題が流れて、次の話題でまた盛り上がってというようなことを繰り返すそうな。
そういう場を設けることで、村の者たち同士の濃密な人間関係を育む。現世ではそういう話し合いの仕方がなくなってきておると思う。じゃが、そういうやり方でしか解決できない問題というのはあると思うんじゃな。
高尾 今の人間関係は、昔に比べるととてもそっけないですからね。
原 ただ、日本社会で結論を決めないのは、あまり変わっていないんじゃないですかね。最終的には結論を出さなければいけないのかもしれないけれど、とりあえずいろいろな人に話してもらい、皆がひととおり意見を出せば、それでなんとなくまとまるところは日本の文化かなとは思います。
高尾さんが先ほど忍者の概念みたいな話をされましたが、この概念も近世まではいい加減というか、はっきりと白黒付けるものではなかったと思うんです。例えば修験では、真言宗の僧侶でありながら修験者であったり、あるいは他の仕事もしていたりという人はたくさんいます。だから、武士でもあり、忍者的な側面もあり、もしかしたら修験者かもしれないということは結構あったんじゃないでしょうか。
私たちは明治以降の西洋的な学問で白黒はっきり付けることを教わりましたが、そういう曖昧な部分があることは江戸時代までは当たり前だったかもしれません。神主であり、僧侶であり、修験者であるように、はっきりとこれが忍者だ、忍術だと定義付けるほうがむしろ間違いかなと。当時の考え方に寄り添うと、そんなふうにも見えてきます。
高尾 そうですね。実は「忍者」は、高度経済成長期以降に広まった呼び方で、史料上は「忍び」です。一般社会においては、「忍者」と言うと、「フィクション忍者」のイメージに留まっています。歴史的に実在した伊賀者、甲賀者とは直接的には結びつきません。
もちろん、そういう人たちがモデルになって、今もフィクションとして受容されている面もありますが、違うところはだいぶあります。「忍者学」と言う場合も、“忍者”が今の概念なので、研究ではもっと昔の社会の実態に照らして考えなければならないんですよね。
例えば、津藩の初代藩主だった藤堂高虎(とうどうたかとら)は、武将でありながら自分で情報探索していました。彼は「敵方の城の堀の深さを測る」と言って自分で測りに行くんですよ。忍者に任せればいいのにとも思いますが、たぶん石に紐でも付けて堀に落とし、濡れている部分の長さを見たんでしょうね。
それで、言わんこっちゃない、お城から鉄砲を撃たれてひっくり返るんです。心配して付いていった家臣の服部竹助が安全な場所まで抱きかかえて運ぶのですが、そこでパッと目を覚まして照れ隠しに頰を殴ったと言います。それで服部竹助の奥歯が2本折れたと書いてあるんです。
それはさておき、藤堂高虎のような武士でも情報探索はしていた。それも忍者学の1つの研究対象です。
凛 確かに。大事な視点ですな。
高尾 情報対策や忍者の行動は、別に忍者だけが行っていたわけではないので、当時の生活や社会を大きく広げて捉えて見なければいけないんですよね。
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