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【三人閑談】
忍者とはなんじゃ?

2024/10/21

身近な存在だった修験者

 慶應在学時には修験道の大家の宮家準(ひとし)先生がおられました。修験道は宮家先生の講義と著書で勉強しました。宮家先生は「宗教社会学」という授業で1年間、修験道のことを教えておられたんです。私はそういう研究がしたかったこともあり、すべての講義をとても面白く拝聴しました。

高尾 原さんは米沢におられますが、米沢藩にも忍者やそれに近い活動をしていた藩士がいたのでしょうか。

 例えば、伊勢などの有名な寺社では、御師(おし)(特定の寺社に属する神職)が夏頃に「檀家回り」をします。それぞれの檀家を訪ねて御初穂料をもらい、お札を配って「来年うちに参詣に来てくださいね」と約束します。実証は難しいのですが、「檀家回り」は全国を回るのでかなり情報通になります。

これは修験者も同じで、山形県の出羽三山の羽黒修験などは、関東や東北をしょっちゅう回りますから、彼らも情報源だったのではないかと思います。おそらく各地の地理や習俗にも精通していた人たちです。

高尾 忍者がいろいろな宗教者に化けて情報を取ってくるということは文書にも残っていますが、そういう人たちもいろいろな村や町に行き、地域社会からも受け入れられていたのですね。

 そうですね。山形県などでも、明治・大正期くらいまでは村に修験者や元修験者が結構いました。家を建てたり、雨乞いをしたり、病人に調伏(ちょうぶく)をしたりと、いろいろな場面で修験者が出てきます。一般人の生活に関わりが深い存在でした。

しかし、明治以降、政策によって修験者は次第にいなくなりました。社会の中で修験者が縁遠い存在になったのは大きな変化だと思います。

 現世の者の感覚じゃと、修験道にはどうしても神秘的なイメージなるものがござり申すな。拙者はその道に明るくござりませぬが、修験者とはそもそもどういう存在で、どういうふうに大事にされておったのじゃろうか。

 まず、自分のために山の中でさまざまな修行をするんですね。断食や滝行、あるいは山中を走り回ったりといったことです。そういう生活をしているので誰も知らないような道もよく知っていました。

彼らの修行には自分自身を高めるのともう1つ、山の気を自分の体内に取り入れて、それを他の人々にも使うという大きな側面がありました。そういうことをしていたので一般の人々にとって身近な存在だったのです。そんな人がお坊さんや神主さんのように普通に村に住んでいた。村人が病気になった時に呼ばれ、医者のような役回りも果たしました。江戸時代まではこれが普通でした。

 故に断食であったり、一生懸命に鍛錬したりしておる者は、人を治すことができると思われておったということでござり申すか。

 そうです。いろいろなお祈りをしてくれる存在でした。

 昔は悪霊が病気の原因とされていたということは聞き申すが、お祈りを致して効果があったということが史料に出てくるのでござろうか?

 そう信じられていた、と言うのがいいですかね。中には多くの信者が付く人もいました。

高尾 米沢には今でもやっている方はいらっしゃるのですか?

 はい。米沢では「法印(ほういん)さん」と呼ばれ、家を建てる時のお祓いなどに出張していらっしゃいます。さすがに病気の祈祷まではしませんが、年配の方に聞くと、大正期頃まではそこら中にいたと言います。

 修験者のそのような人知を超えた能力は、評判で伝わるのじゃろうか? 何をもってその者が修験の道を歩んでおると認識されるのじゃろう。

 難しいですが、それは修行の回数などによると思います。彼らの役割は、今「新新宗教」と呼ばれる宗教がある程度担っていると言えるかもしれません。例えば、宗教者のカリスマ性だったり、弁舌の巧みさだったりですね。祈祷の力は、科学的に言ってしまうと「ない」と判断せざるを得ないんですが。

 忍術書でも「吉凶を占う」という表現がよう出てきますな。

高尾 昔の人はそういう宗教的なことで心を安心させていたところはありますね。「九字(くじ)護身法」というのも修験がやります。「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と言ってね。僕も三重大学に就職した時に「九字印(両手を組んで作るハンドサイン)」を覚えました。

 確かにやり申すな。

 いろいろやり方がありますよね。

 実は今、拙者のように、全国各地で忍者がよみがえっておるようなのじゃ。いつも名古屋城に遊びに来てくれるわっぱ・・・(子どものこと)がいずこかに遊びに行った時も、そのような忍者に会うたと。普段我らが「これが九字印じゃよ」とやって見せるもんじゃから、忍者は皆九字印ができると思っておったらしく、その忍者ができないのを見て、「もう行かない」と(笑)。

 忍者ならできないとまずいというのはありますよね(笑)。

 九字印は、今や代表的と申すか、現世でもわりと皆がよう知るものになっておると思い申すが、わっぱがこれを、忍者を見極めるための基準の1つにしておるのも面白い。

高尾 九字護身法は忍術書に出てきます。ですが、村に住んでいる普通の人たちも、自分の身を守るためにどのように印を結んでお守りするのかを書き残しています。だから、忍者や武士だけのものとは限らない。

 「忍者」はあたかも1つの分野として存在しているように思われるやもしれぬが、忍者にかかわらず、その時代の者が皆やっておった生活の知恵のようなものがあり、その一部が忍術書にも記されておると。じゃから、超人的な存在と言われる一方で、一般人とつながった実体を伴う像である。その両面を兼ね備えておるのが、忍者の面白いところじゃと思い申す。

大学で忍者・忍術を学ぶ

 三重大学大学院の忍者・忍術学コースにはどんな人が入ってくるんですか?

高尾 凛さんのように忍者関係の仕事をしている人もいますし、観光業の人もいます。個人的な興味で忍者学を研究したいという忍者オタクもいます。「忍者文化論特講」や「忍者文化史料論演習」といった講義をするのですが、皆先入観が強いので「一旦忍者を忘れましょう!」と言っていますね。

忍者・忍術学コースではまず、「検地帳」や「名寄帳」、「宗門人別帳」、「年貢割付状」といった古文書を30くらい、1年かけて読みます。くずし字や近世社会の基本的な成り立ちを勉強します。忍術書というものが風俗や民俗のことがよくわかる史料だからです。

今のように簡単に情報が手に入らなかった時代は、人間がわざわざ動いて情報のやりとりをしていました。そういう中では、宗教者や娯楽を媒介にして情報のやりとりをしていました。例えば、情報探索をする時に人を集めなければならない。では、どういう手段で人を集めるか。

「当流奪口忍之巻(とうりゅうだっこうしのびのまき)註」という忍術書では、「浄瑠璃(じょうるり)・小謡(こうたい)」という手法が紹介されています。これは芸能でもって人を集める手法です。他にも「太平記読み」というものもあります。往来で太平記を読むと、人が「なんだ、なんだ?」と寄ってくるので、そこで人を集めるのですね。

私はもともと徳川幕府の伊賀者の史料から忍者学に入ったクチですが、とくに忍者が好きだったわけではありません。忍者が書いた忍術書が社会の中でどのように成り立っていたのかがわかる史料として見ています。

中でも「当流奪口忍之巻註」に「太平記読み」が出てくるのは面白い。太平記読みが出てくるのは割と古い時代で、江戸中期から後期になると違うものになっていきます。「当流奪口」には明暦の大火の記録もあるので、17世紀中頃の成立だろうと考えられています。それなら太平記読みが出てきてもおかしくない。そうして忍術書を生活史の史料として読み直すこともできるんです。

 いや、ほんにそれは大事なことじゃと思い申す。現世の皆に親しみやすく、呼び水としての役割を果たしやすいのは、創作としての忍者の姿。しかし、じゃからこそ、実際に生活をしておった一人間である忍者が、どのような存在であったのかも理解する必要があると思い申す。

とくに江戸時代は参勤交代で生活が苦しくなり、鳥取藩の忍者の中にも、具足を貸し出してもらえるよう藩に願い出た者がおり申した。そのような人間臭く、超人的な印象からはちと外れる忍者の姿も理解することで、はじめて「虚像」であるこの黒装束に、本物の忍者としての重みが加わるのじゃと、拙者は考えており申す。

人間らしい忍者の一面

高尾 凛さんが研究対象にした鳥取藩は史料が多く残っていますよね。忍びのことを史料では「御忍(おしのび)」とされていますが、近世初期は「夜盗(やとう)」という役職名でした。家譜類や、上司に当たる御目付の日記が膨大にあって、今おっしゃったような人間的な側面がよく分かる。ドジな忍者も出てきますよね。

 さようですな。藩主が風呂に入る時に火の番をする御入湯御供(ごにゅうとうおとも)という職務では、番の間に簀子(すのこ)に火が移ってぼやが出た。しかし、御忍はそれに気づかず、他の者が見つけたことが発覚して、その忍者は藩外追放となり申した。

拙者の研究では、御忍が「御内御用(おうちごよう)」という奥の御用を通じて藩主と関係があったことにも触れておる。御内御用を通じて情報探索などを勤め、藩主から直々にお言葉のご褒美を頂戴したという記録がござり申す。拙者が調べた中で最も出世したと思われる御忍は、倅の世代になった時に10年の江戸詰(えどづめ)を勤めきれず、没落していくといったこともあり申した。そういう人間模様が知れることも研究の面白さじゃと思い申す。

高尾 江戸時代の忍者は幕府や藩の中で主君のそばに仕えることが多いですね。時々、他の身分や生業の人に扮して情報を取りに行くこともありますが、言ってしまえば普段はガードマンでしょう。

 戦闘に関わった記録や史料はあるのでしょうか。

高尾 もともと忍者は情報探索や軍事偵察、それから奇襲作戦ですね。予想もしないような時間と場所から攻撃を仕掛けることもしていました。奇襲の専門家ということは守る専門家でもあるので、陣地や館、城を守る守衛の役割も果たしていました。

忍者が最も活躍した戦国時代はそういう感じでしたが、江戸時代は戦争がなかったので、次第に情報探索と守衛が残り、幕府の御庭番や伊賀者、鳥取藩の御忍はそのような任務をしていました。

ひと言で言うと、忍び働きが専門の足軽です。このような特殊な足軽身分の人たちが忍びと呼ばれ、後に忍者という呼び名になったということです。

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