三田評論ONLINE

【三人閑談】
知れば詠みたい現代短歌

2024/06/10

短歌にもコンプラ?

穂村 昔あるお母さんが「自転車の前後に子どもを乗せて」みたいな歌を新聞に載せたら交通法規上ダメという投書がきたそうです。SNSでも子どもと公園で花の蜜を吸ったと書いたら、それは公共物の条例違反に当たると言って炎上したこともあった。そういうのはどこまで許容されるのでしょうね。

田中 炎上やハラスメントの例は本当にさまざまで、生きにくい状況だなあと思うのですが、花の蜜を吸って条例違反だと言われた歌には、それが当たり前だった時代への大らかな郷愁があるのかもしれない。

短歌には千数百年の物差しがあって、最近の過剰なコンプライアンス意識は、人間らしさを勝手に窮屈にしているように思えます。そういうことを問い直すためにも、あえて三十一文字の治外法権の場があってもいい。

穂村 僕がいつも例に挙げるのは荻原裕幸さんの若い頃の歌です。「どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ雪のはじめのひとひらを待つ」。彼が20代の頃で80年代に作られた歌ですが、これは今だとまずいよね。

でも当時は孤独な青年のリリカルな心の触れ合いみたいに読まれていたわけよね。よく知っている幼なじみの少女を親の許可をもらって両親の前で肩車をしたというんじゃ短歌にならない。

田中 そうですね。面白くない。

穂村 しかも今は子どもの権利は親でも勝手にジャッジできないと言われるわけでしょう。一方、これを疑いもなく叙情的な歌だと思って読んだ20代の自分の記憶もあるわけ。未来人になった現在の自分はこれを「事案」だと思っている。「じゃあ短歌としてはどうですか」と言われたら悪い歌じゃないと思うよね。

作中主体の行動が今はNGであることと、短歌として悪い歌じゃないと思うことが両方起きている。これをどう弁護できるだろう?

田中 弁護したい自分が9割ぐらいですが、大学で教員をしていると教員が生徒を詠みづらい時代だと感じることもあります。以前特別支援学校の教員をしていたことがあるんです。その時にいろいろな生徒のことを固有名詞で詠みたかったんですが、それもまた「事案」になってしまう。

でも本当は三十一文字の中に固有名詞もどんどん入れて、主体がそれとどう向き合ったのかを生き生きと詠んだほうが嘘っぽくない気がする。それを勝手に制限している自分のフィルターが嫌だなと思います。

穂村 どうして短歌の中では肩車しただけで事案なのにミステリーは人を殺してもいいんだろうね。

鈴木 私もすごく好きな歌ですが、いつの間にかこれ大丈夫かなと心配してしまうような世界になりましたよね。

穂村 今は下校中の子どもに「こんにちは」と声をかけたら事案だからね。

鈴木 一方で、今は短歌ブームと言われ詠む人が増えているのは、散文では言えないことが言えるゾーンが短歌に残っているからじゃないかとも思います。

読みたくなる怖い歌、暗い歌

田中 今はいろいろな表現者が批判を恐れて炎上を怖がっているご時世でもありますが、三十一文字に関しては信念を持って書いたものならどんなに批判されてもこれを貫こうと私は思います。他人に何と言われてもこうだと言い張りたいことを短歌で表現する。

穂村 鈴木さんは割といけそうだよね。燃える闘魂という感じで。

田中 今はあまり女流歌人と言いづらい世の中ですが、短歌界には芯の強い女性がたくさんいてその貫き方がかっこいい。その系譜に鈴木さんも入りそうです。

鈴木 ありがとうございます。

穂村 晴香さんのこの歌が僕は好きなんです。「冷たいと思わないと思われている鮮魚は氷の上に眠って」。魚屋さんの氷の上の魚が「冷たいと思わないと思われている」と言ったらギョッとするよね。「いや、思わないよ。だって死んでるじゃん」というのが普通の反応だけど、作者は、自分をあの氷の上の魚だと思って皆が冷たいと思わないんだと思っていると思うと恐ろしい感じがする。

与謝野晶子のライバルで若くして亡くなった山川登美子という人がいますが、この短歌を読んで僕はその人の晩年の歌を思い出したんです。「おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな」。

たぶん病気で床に付いていて、発熱して氷を当てているんだと思うんです。それで氷の上に眠るオットセイが幸福だという。どう見ても普通の感覚では快適そうに思えないけど、それを今自分も知るという、すごくニヒルな、ある絶望を踏まえた誇り高さみたいなものを感じる。

晴香さんの、死んでいるはずなのに氷の上で皆は冷たいと思わないと思うというのは、死んだ魚にそんなこと言われたとしたらすごく怖い。これは読者に心地良い今の短歌とは少し違いますよね。

田中 媚びていない感じがある。

穂村 ユーザーフレンドリーなものを皆が望む時代になっているから、短歌にもそういうものが望まれるんだけど、どこかでそうではない面白さもあるんじゃないかという。

田中 國學院での授業でも学生たちは最初、喜怒哀楽の喜びや楽しさを表現しようとするのですが、途中であえて今まで誰にも言わなかったことやネガティブな感情を詠んでみてと言うんです。

学生は大体戸惑いますが、そこでこんな自分を表現してみましたと持ってくる学生もいる。それは作品としてすごく面白い。他人がどうかという価値基準を超えて、詠み手にとっての正解を見つけたり、それを詠むことで誰にも言えなかった気持ちが自分の中にあるのを知った感じが見て取れるんです。

穂村 折口信夫が卒業していく学生に向けて「桜の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ」と歌った短歌があります。われわれ平凡な人間の感じだと、励ましの言葉とか「元気で頑張れよ」というのがあるべきじゃないですか。でも、折口にはそういう祝意がなくひんやりしている。でも「おめでとう、頑張れよ」と言った先生が「君」のことを忘れても、この人は忘れないなという感じがすごくする。

折口の歌にはそういうのが多くて、すごく暗いと思うものがいっぱいあるけど、そこにわれわれが普段良いとしているベクトルの中だけに良いものがあるのではなく、何か読みたくなるような異様な思いの強さがあるんです。晴香さんの歌にもそういうところがあると思いました。暗い歌でも。

鈴木 暗い歌が好きなんです。

穂村 例えば「手品師が覚えていろと言うカードいつ忘れればいいのだろうか」という歌もあって、これは自分が手品師だったら怖いと思う(笑)。手品の場面では全員合意しているはずの「これを覚えてください」「(絶対当たるはずがない)」「これでしょう」、わあっとなったところで世界は終わるじゃない? でも、その人はずっと覚えていていつ忘れればいいのかと本気で思っている。

例えば50年後に再会して「50年前、あなたにこのカードを覚えておくように言われたんですが、いつ忘れればいいですか」と訊かれたら怖いよね。でもすごくいい。その怖さは味わってみたい。

鈴木 この歌は私自身がこの肉体から逃れられないみたいなところから発想した歌ですね。私である限り、本当の意味でカードを忘れることはできない。

没入型の歌人とは

穂村 ある種の歌人にはすべてにおいて、いつ忘れればいいのだろうかの塊みたいな感じがあるんですよ。心の深いところでどうなってもいいと思っている人の怖さというか。

よく駅の改札口で抱き合っているカップルがいますよね。2人とも一心不乱になっている場合はいいんだけど、1人は完全に没入していてもう1人は微妙に周りを気にしている気配がある時、ああ、あの人はやばい、あっちが死ぬと思うよね(笑)。没入しているほうは意外と死なない。だってキョロキョロしているのは無理がある状態じゃん。でも、歌人には時々、今ここへの没入感を強く出す人がいるから怖くなるんです。

田中 両方のタイプがいませんか?

穂村 田中さんはどちらなの。

田中 周りがどうであれ突っ込む派。

穂村 全部の国に行こうとするぐらいだからね(笑)。海外で危険な目に遭ったことはないんですか?

田中 泊まったホテルに、爆弾が打ち込まれて、真っ黒な痕跡が壁に残っていたことがありました。

穂村 それは危険だね。

田中 サラエボではかつてサッカー場だったところが20万人の墓地に変わっていたんです。そんな状況を聞いたら、これを見ずして帰れないと思って、行きました。やはり現地で目にしたものを大事にしていきたいと思います。三十一文字のルポルタージュ。

穂村 書斎型の人が多い歌人の中で現場に行く人は少数派ですよね。

鈴木 突き進むタイプですね。

穂村 僕なんて今日、ここにたどり着くまでに超おどおどしたな。だって、慶應大学の行き方なんてどう考えても駅から分かりやすいはずじゃない? それなのに赤羽橋からの地図がどれも微妙なんですよ。迷って迷って「慶應は存在しないんじゃないか」とすら思えた。

田中 穂村さんはすごくきっちりされているイメージがあるのに(笑)。

穂村 大丈夫だという気持ちが維持できないんですよね。

田中 歌を詠んでいても信念を持って言葉を選んでいるようで迷いを感じさせないところがありますよ。

穂村 他の人の感覚がわからないんだけど、そういう不安の強さが短歌に現れる人は時々いるよね。大滝和子さんにも「おそろしき桜なるかな鉄幹と晶子むすばれざりしごとくに」という短歌があって、これも普通の感覚じゃないよね。

田中 面白いですね。

穂村 すごい比喩というか。でも、たぶんこれは頭の感覚というより身体の感覚だと思うんだよね。

(2024年4月24日、三田キャンパスにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事