【三人閑談】
知れば詠みたい現代短歌
2024/06/10
若手歌人は恋愛を詠むもの?
穂村 そう言えば、今は昔に比べて恋愛の歌が少ないよね。僕らの頃、恋愛の歌はオーソドックスだった。というより、若い人は必ず恋愛の歌を書いていたんですよ。
田中 文芸誌や女性誌の編集部から恋愛をテーマにしてください、という依頼が多くありました。CMのコピーでも、相聞歌(そうもんか)を、といわれることが多かった。
穂村 昔の和歌集でも季節と並んで恋の部になっていましたね。四季と同じぐらい本質的なものだという考えが大昔からあったのか。その点、今は例外的かも。恋の歌を忌避する感じがありませんか?
鈴木 ありますね。だからこそ私は恋の歌を頑張ろうと思っています。
穂村 今の若い子たちはどうして恋の歌を避けたいんだろう。
鈴木 短歌だけではなく、現代の状況が恋愛至上主義ではなくなっていることが大きいのではないでしょうか。
穂村 そういう時代に昔の自分の歌を読まれると野蛮人みたいに思われそう。こんなに恋愛を詠んで頭の中はどうなっているのかと(笑)。
鈴木 歌会でも「若いんだから、恋愛の短歌作りなさいよ」と言われます。「私はもう歌えないから」と。
穂村 それはハラスメントだよ(笑)。
鈴木 70代、80代になって歌えないこと自体が自己検閲というか、何か圧力がかかっているんじゃないかと思えます。私は絶対にいつまでも恋愛の歌を詠み続けたい。
穂村 鈴木さんは最初に歌を作る時、ハードルを感じなかった?
鈴木 ものすごく感じました。自分の心をさらけ出すことではないかという怖さがあって最初に投稿するまでに数カ月かかりました。
穂村 さらけ出して書いているんだね。
先入観を外してくれる歌
穂村 僕はいろいろなところから短歌を集めるコレクター気質があって、以前「おふとんでママとしていたしりとりに夜が入ってきてねむくなる(松田わこ)」という歌を取り上げました。これは7歳の女の子の作品なのですが、素晴らしい。
お布団でママと夜仲良くしりとりをしていたら眠くなってしまったという描写を、大人なら「睡魔に襲われる」と擬人化しますが、子どもだからそういう発想もなく、夜が仲間に入り3人のしりとりになって、いつの間にか眠ってしまったという。
田中 いいですね。
穂村 同じ作者でこんなのもあります。「『わしはウマ』『わしはヒツジ』おじいちゃんたちが明るく揺れてる市電」。市電の中で干支を言い合っていたんでしょうね。なぜか知らないけど、干支を言い合う時間帯ってあるよね。それで「俺たち一回り違う」とか言い合う。作者の彼女は「わしはウマ」「わしはヒツジ」と言うのを聞いてちょっとびっくりしたんでしょう。市電というのも、動物が運ばれていくような箱舟みたいな感じがいい。
7歳の歌でも、われわれが本気で作った歌がこれに勝てるかというとちょっと自信がないよね。大人になると、ハードルが生まれて子どもの時にできていたことができなくなったりします。
田中 7歳のお子さんの作品もいいですが、高齢の方の短歌もいいんです。数年前に静岡でコンテストがあって、そこで出会った渡辺つぎさんという100歳を超えた人の『一日一日はたからもの』という歌集づくりを応援しました。
100年生きた人の発想はとても自由ですごい歌がたくさんある。私たちもこうあるべきだという先入観は外していいと思いました。「音量をしぼりラジオ体操中誰ものぞくなよ百二歳なれば」という歌に見られるユーモア!
穂村 こんな短歌が新聞に送られてきたことがあります。「前科八犯この赤い血が人助けするのだらうか輸血針刺す」。金子大二郎という人の短歌ですが、輸血をするためには病気をしていなかったりとかいろいろな条件があるのは知っていたけど、「前科」は考えたことがなかった。
差別意識はないつもりでも、病院で「では今から前科八犯の血を輸血します」と言われると、自分も輸血後には〇・二五犯ぐらいにはなるような気がする(笑)。この人も「俺の血でいいのかな」と若干ひるんでいるよね。でも、本当は前科一犯とか二犯なんだそうです。
田中 創作が入ってるんですね。
穂村 そう。確かに「前科二犯」では短歌として迫力不足。だけど、そこを盛るのかと(笑)。
鈴木 「にはん」が「はっぱん」になって破裂音が入るのもいいですね。
今の時代、炎上したりコンプライアンスが厳しかったりして、しゃべりにくい世の中じゃないですか。散文で前科八犯の人が「献血した」と書いたら文句を言われるかもしれない。でも短歌ならユーモアが生まれたり、現実世界とはまた違う次元に行けると思うんです。今、地声で話せないことも短歌には裏声で話せる強みがある。
フィクションはどこまで許されるか
穂村 先ほどの歌は前科を八犯に増やして作ったわけですが、では前科のない僕があの歌を作れるかというと、それは引っ掛かるんです。フィクションなら別に誰が作ってもいいはずですが、短歌にはそれを全面的には許さないところがある。いろいろな方面に失礼だし、ちゃんと刑務所に入った人に悪いだろうと。でもミステリー小説で人を殺しても不謹慎ではないじゃないですか。
あと短歌に限らずだけど、フィクションでも震災のように大きな現実の出来事があるといろいろ言われますよね。しばらくの間は不謹慎だみたいに言われて。SNSでも叩かれることがあって、それも何日経てばいいみたいなルールがあるわけではない。小説でさえも実際に震災を体験していないのにルポを借りて書いた作品が批判を浴びることがあるでしょう。当事者性の問題かもしれませんが。
田中 もっと自由にファンタジーやミステリーの三十一文字があってもいいと思うんです。私は静岡県が募集する「あいの歌」という子育て短歌コンテストの選歌を俵万智さんと10年ほどやっていて、以前こんな歌がありました。「『ママどうぞ』小さな砂のおだんごは創業二年のやさしいお味」。
創業二年という表現で子どもは2歳と分かるのですが、お母さんには今この時しか作れない何かがあったのでしょう。フィクションであれ実際に起きたことであれ、一生の中でこれだけは自分の正直な気持ちで詠みたいという場面が人生にはある気がします。
穂村 短歌の中で子どもの有無や数や歳や性別を変えるのはどうだろうね。
田中 この子育て短歌コンテストは毎年2、3000ぐらい集まる中で最終的に20首ほどが受賞作になるのですが、その中でLGBTQや性別の多様性を詠んだ歌もあります。
それは当事者かもしれないし、当事者を演じながら詠んだ歌かもしれない。自分がどちらともなく揺れている感じが現れている歌もあります。詠み手は女の子が好きだけどあえて違う立場で詠んでみた歌とか、内面にある何かからフィクションの名の下にそういう詠み方をするのかなと思ったりもします。
穂村 そのフィクション指数とでも言えばいいのか、晴香さんのフィクション度はどうですか?
鈴木 難しいところですね。友だちのこういう仕草が素敵だなと思った時に恋愛の歌に変換して取り入れることもあります。実際の経験を元にしていたとしても別の記憶やフィクションを重ねるので、あとからこれは一体誰がつくった短歌だろうと思うこともある。
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