三田評論ONLINE

【三人閑談】
想い出のつるの屋

2023/10/16

大先生との想い出

高田 それから、忘れられないのは、年配の大先生がふらりと来られることがよくありました。ある時、入ってすぐの左の机の角席しか空いていなかったので、そこに座りましたら、その後から、亡くなられた法学部の大先生がふらっといらっしゃって、「ここいいかね」と。

駄目だと言えないじゃないですか。ドカッと座られて私は小さくなっていたら、「高田君、僕は学者として成功したのかな」と言うのです。

北居 そんな話をされても(笑)。

高田 それは困りますよ。でも、その大先生にしてこの空間の中で心を開いてしまう。自宅の居間でも絶対そんなことおっしゃらないと思うんですけど。すごい空間だなと。

もう一方、政治学科で名物だった先生、やはり同じようにいらっしゃいまして、「おい、ここ空いてるか」と。しばらくしましたら、「おい、高田、おまえ新橋に行ったことあるか、いい所に連れていってやろう。車を呼べ」と。表でタクシーを捕まえたら、「じゃあ、行くぞ」って新橋に連れていかれて。

着いた所が何か見たこともないちんとんしゃんのお店。「おまえ、こんなところ来たことないだろう」と言って、ものの30分も飲みましたら、「じゃあ、俺はこれで帰るから勘定はおまえが払っておけ」。嘘のような本当の話です。

浜田 それは怖い。

高田 たぶんつるの屋に探しに来たのです(笑)。ちょうどいいのがいたと。

北居 その政治学科の先生はよくお見かけしましたね。でも、怖いので、あまり近づかない。

あとはやはり文学部の三浦和男先生は主(ぬし)でしたよね。もう常にテーブルの一番端にお座りになって。三浦先生がご引退された後は樽井正義先生がそこに。今日は法学部の話が中心になってしまいますが、やはり文学部の伝統もございますし、経済学部ももちろん。

高田 池尾和人先生、よくお見かけしましたね。

北居 でも、ゼミ生を連れて毎週行ったのは、たぶん倉澤ゼミ、高田ゼミと私のゼミぐらいでしょうか。さすがに毎週通うゼミはあまりなかったかもしれないですね。

浜田 應援指導部もそれほど頻繁に行ったわけではないですけど、神宮で土曜日に野球をやって、勝った時なんかに、3年生とかが僕ら後輩を連れていってくれた。それが初めてだったのです。先輩がおごってくれてビールはいくらでも飲ませてくれますけど、つまみなんて本当にピーナッツとか最低限のものだけ。それで、翌朝早く神宮にまた行くのです。

北居 他に体育会やサークルなどもよく来るところもありましたね。自動車部とか、歌舞伎研究会などもよく来ていたようです。

「つるの屋なくして学問なし」

北居 法学部は昔から木曜日をゼミの日としていたのです。だから木曜日は皆、集まりやすかったのでしょう。倉澤先生はもちろん、定席が決まっていて、端っこのほうに私のゼミとかがいました。

ゼミ生を連れて来なくても、他の法学部の先生方がふらりと来たり。よく冗談で、木曜日につるの屋で教 授会を開けると(笑)。

高田 倉澤先生は無粋な話はされないのですが、例えば勉強が好きな学生が、一杯ひっかけた勢いで議論で食ってかかると、嬉しそうにいろいろ教えていらっしゃった。あまりにしつこくなると、酒がまずくなるからやめろと(笑)。というわけで、やはり夜のゼミナールでした。

北居 倉澤ゼミは6時ぐらいにいらして、9時ぐらいには倉澤先生はもうお帰りになりましたよね。

高田 昔々は皆で、ゴールデン街まで移動したりしていたらしいのですが。

北居 有名な「つるの屋なくして学問なし」というお話もありますね。高田さんがご著書の献辞に書かれたと。

高田 酔っぱらってそういうことばかり言っているんですけど。正直申し上げて、私はつるの屋で学問を教わったという愉快な経験が多くあります。どうしても教室ですと、「本当のところはどうなんですか」という話はしづらい。突っ込んだ議論は専らつるの屋で、となるんです。

師匠は教室で時間をオーバーするということは全くない。そこは終わって、だけど一杯飲みに行く。すると酒のつまみに一番いいのは法律の議論だということになる。

北居 われわれが大学院生として通っている時は、そういう勉強の話もかなりしましたし、それから教員になってゼミ生と行っても、与太話ばかりではなくてやはりちょっとは勉強の話をしたり。

単に飲んで遊ぶだけではなくて、教室で足りない時間をちょっと延長するような場所と時間であったのも事実だとは思います。

浜田 それもやはりその空間が、それができる場所なんでしょうね。

北居 何か社会人が、飲んでいる場所で仕事の話をするなよ、みたいな話はよくあるわけですが、院生も含めて学生、あるいはわれわれ研究者にとっても、一番好きなことは本来は研究、勉強のことです。

それを楽しい時間にしなかったら、むしろそっちのほうがつらいのではという気がするものですから。そういう意味では、本当に三田キャンパスの延長につるの屋さんがあったというような思いがありますね。もちろんばか話はいっぱいするのですが。

應援指導部の方はどういう話をされていましたか。

浜田 やはり先輩と一緒だと、先輩に遊ばれるというか。総じて應援指導部とか体育会はそういうことを受け入れるような人が入ってくるので、いい意味でいじられながら、「飲め、飲め」とか言われたりするのが楽しかったんだと思います。

同級生だけで行くと、くだらない話から始まって、應援指導部はどうあるべきかというところを時々議論はしましたね。

でも、飲み方はやはり同期だけの時と、後輩がいる時と、先輩がいる時では全然違う。そういうこともやはり分かってくるので、それも生きた勉強なのかなと思いましたね。

積み上がるOBからの焼酎

北居 昔はビールで、その後、樹氷など焼酎や日本酒を飲んだりと決まっていましたね。今は多様化していますよね。何を飲むかわからない。つるの屋さんで、終わる5年とか10年ぐらい、流行りだったのは梅酒で、女子学生中心によく飲んでいました。

浜田 現役のころはひたすらビールだったような気がするのです。焼酎も、まだそれほど飲んでいなかったような気がします。

高田 私の師匠のゼミは「樹氷」ばかり。

浜田 樹氷ができたのが、たぶん1982~3年ぐらいですね。

高田 ビールは高いから飲むなという話をしておりまして。

北居 そうなんですよ。最初はビールで乾杯するんですけど、すぐに焼酎に切り替えましたね。

高田 しかも、「甲」のほうの焼酎。亡くなった師匠が焼け跡、闇市派なんで、こういうのが大好きで何も味がないのがいいんだと。純粋なアルコールに近ければ近いほどいい。

北居 樹氷を飲んでいたのは倉澤ゼミと高田ゼミだけじゃないですか。

高田 最後はそうでしたね。師匠のゼミのほうは皆さん偉くなられて、「じゃあ、後輩に」と樹氷を1箱ドンと入れていっていただいたことも。そうしますと、在庫が手洗いの前に積み上がってしまうのです。飲んでも飲んでもなくならない、うれしい悲鳴という(笑)。

「樹氷」のボトル

北居 私のゼミも焼酎ですね。いいちこから始まって、そのうちいろいろ。赤霧島とか飲んでましたけど、私は途中で焼酎が嫌になって日本酒を飲んでいました。

浜田 應援指導部の場合は困った飲み方もありまして、年代によって若干違いがありますが三色旗飲みというのがあって、ビール、焼酎、日本酒というのを交互に。最悪なのは、それをブレンドして飲ませるとか。悪酔いしました(笑)。今では考えられない、遠い昭和の記憶です。

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