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【三人閑談】
想い出のつるの屋

2023/10/16

  • 浜田 彰大(はまだ あきお)

    東京理化器械株式会社勤務。
    1981年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。コピーライターなどで広告制作に携わってきた。塾應援指導部在籍時に、つるの屋厨房でアルバイトをした経験を持つ。

  • 北居 功(きたい いさお)

    慶應義塾大学大学院法務研究科教授。
    9月まで同研究科委員長。1984年慶應義塾大学法学部卒業。91年同法学研究科博士課程単位取得退学。学部生時代からつるの屋に通う。

  • 高田 晴仁(たかだ はるひと)

    慶應義塾大学大学院法務研究科委員長・教授。
    1988年早稲田大学法学部卒業。95年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。大学院時代より恩師倉澤康一郎先生よりつるの屋でも薫陶を受ける。

厨房でアルバイトをした学生時代

北居 三田通り機械工具会館の地下にあった大衆割烹「つるの屋」が閉店して、はや3年半。すぐに再開されるはずが、店主のチーさん(故渡辺孝氏)の急逝によって新装開店が幻となりましたが、私たちの心の中には今も存在しています。

そのような中、慶應義塾史展示館で、9月20日から10月7日まで「三田につるの屋があった頃。」という展示が行われる(近日中に、展示室360度ツアーを公開予定)ことを機に、つるの屋の想い出を語り合ってみたいと思います。

浜田さんは塾生時代、つるの屋の厨房でアルバイトをされていたのですよね。

浜田 法学部政治学科の3年に進級し、三田に通うようになり、つるの屋によく飲みに行っていたのですが、ママ(故渡辺静子さん)から「浜田君、バイトしない?」とスカウトされたのです。

應援指導部(リーダー部)に入っていましたので、週に3~4回、同期や後輩などにも声を掛けて、1日2、3人のシフトを組んで、厨房のアルバイトをしていたんですね。

最初は皿洗いから始まったのです。同級生に小茂鳥君という非常にユニークな男がいて、食器洗いとか単純な作業が嫌でしょうがない。それで自分で何か作りはじめた。

木村さんというおっかない板前さんがいまして、それを見て、「じゃあ、おまえらもやれ」ということになって、いろいろな料理を作り始めた。焼き物から、焼き鳥、唐揚げとかを少しずつ教わりながら覚えていったという感じです。指導は昭和スタイルで厳しかったですね。

高田 代々應援指導部の方が厨房でアルバイトをする伝統があったのですか。

浜田 いや、私たちの代からです。上の代も店にはよく行っていましたが、アルバイトはしていないです。

北居 私の学生時代にも厨房に学生がいたので、それが應援指導部の学生だったんでしょうね。

浜田 北居さんはどういったいきさつで通うように?

北居 学部の3年か4年だったと思うのですが、当時同学年だった岩谷(十郎)常任理事に連れていってもらったのが最初です。

彼は生え抜きの慶應なので、いろいろと情報があったのでしょう。授業がたまたま一緒で、ちょっと時間があるからと、授業の始まる前に行って、ひっかけて授業に出る。

高田 今では考えられないです(笑)。

北居 一応、20歳は過ぎていたので(笑)。学生で、お金がないですから、つるの屋は安くて有り難かった。友人たちとちょこちょこと行き、ゼミが終わったらゼミの仲間と行く。

学部時代はそんな感じですが、大学院生になると、もう、つるの屋ばかり行っていました。世間はバブルでしたけど、大学院生はお金がなくて地べたをはいずり回る世界ですから、つるの屋しか行く場所がない。それでパパさん(渡辺教義氏、ジイジ)、ママさんに大変可愛がっていただいて。

1993年、私が大学の教壇に立ちゼミを持つことになると、ゼミ生を連れて、本当に毎週行くようになりました。

地下に広がる別世界

北居 つるの屋と言えば、倉澤康一郎先生のゼミだと思うんですが、倉澤ゼミのつるの屋との出会いは何かお聞きになっていますか。

高田 これはゼミの先輩方にお聞きした話なのですが、昔々つるの屋以外に、1軒行っていたお店があったのが、ゼミ生が増えたかで手狭になって、つるの屋1店集中になったようです。それがもう昭和50年代の初めだったらしい。

それから、ゼミが終わればつるの屋、つるの屋に行く前にゼミ(笑)、ということが続いていたようです。

ですので、倉澤ゼミにおいては、おそらく教室より明らかに長時間滞在しているのがつるの屋になっている。関係者の皆さんに怒られるかもしれませんが、母校はつるの屋なのか、三田のキャンパスなのか、その両方なのか、少々曖昧なところがあるのではないかと思っています。

北居 高田さんご自身は三田の大学院に入ったその日から、つるの屋に行ったという。

高田 私は1988年に早稲田大学の法学部を出て、早稲田の修士課程に入り、あまりに楽しかったので4年もゆっくりさせていただきました(笑)。修士に入った時に非常勤で三田から早稲田に教えにいらっしゃっていたのが恩師の倉澤康一郎先生。大変お世話になり、これ以上早稲田にいられないとなった時、この先生についていったら、もっと面白い学問ができるのではと思いました。

それである日先生に「三田に行ってもいいですか」と言って、三田のゼミに行き、終わりましたら、当時のゼミのみなさんから「高田さん、つるの屋というところに行きますか」と声をかけてもらって、初めて行ったのです。だから、実は、三田の大学院に入る前に、つるの屋デビューしちゃった(笑)。

東京タワーが真正面に見えるのに、桜田通りを渡ったら、提灯を提げているお店が目に入りまして、地下に下りていったら、もう驚愕の昭和40年代。素晴らしい思い出です。

浜田 本当に地下に下りると別世界です。バイトをしている厨房から見ると、L字型の逆さまに座敷がバーッとあって、右端に8人ぐらいしか座れない、「小上がり」と呼ばれるところがある。そしてテーブルがあって。全体で120人ぐらいは入れる感じなわけです。

ジュークボックスがありましたよね。あれはもう閉店の10年以上前から壊れていて。

北居 いや、あれまた鳴ったんですよ。たぶん途中で修理したんです。

浜田 そうでしたか。

北居 ずっと壊れていて、私の記憶では閉店間際の数年だけ動いていた。本当に昭和のくぐもった音で。

浜田 私が厨房にいたのは1978年~81年ぐらい。その頃、久保田早紀の「異邦人」とか、北原ミレイの「石狩挽歌」がかかっていました。

つるの屋のビル、機械工具会館の上に1人でやっているような業界紙の社長さんがいらして、その人が毎日来るのです。必ず1人で飲んでいて、ジュークボックスにお金を入れて、自分の好きな歌を入れながら歌う(笑)。

そして、壁にはもう三色旗のペナントが一面にバーッとあって。だから、舞台装置としては最高(笑)。むしろ慶應っぽくないお店です。それでも、塾生、塾員、先生がたくさん集まってワイワイしている。今から思うとあの舞台装置はすごいなと思います。

「つるの屋」店内(福澤研究センター都倉武之研究室蔵)

北居 舞台が本当、立ち上がっているんですよね。

高田 ペナントがあんなに飾ってある店は、早稲田では体育会やサークルの部室的な喫茶店だったらあるかもしれませんけど、誰でも気軽に入れる店ではたぶんないんじゃないですかね。

北居 いろいろなゼミやサークル、または有志によるものなど、様々あるので、ちょっと珍しいですよね。そのようにある種雑多なものが一面に飾られている。

浜田 そして田町のサラリーマンの方もたくさん来られますから、何か塾生、塾員、先生、そしてサラリーマンが何となく融合しているような感じもあって。

北居 サラリーマンの方も、慶應出身で昔来ていた人が、慶應出身でない人も連れてくる。

浜田 そういう人もファンになってしまう。やはり懐が深いんですね。

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