三田評論ONLINE

【三人閑談】
美しく文字を書く

2022/11/25

平安時代の息遣いを感じる

岩井 平安時代に読み書きができたのはおそらく貴族階級だけだったと思いますが、平安文学の中に「墨継ぎの景色」という言葉が登場します。また、『源氏物語』に「濃く薄く紛らわして」という表現があり、昔はこれを「誰が書いたかわからないように」と訳していたようですが、最近は「濃淡を付けて」と訳されています。

 「濃く薄く紛らわして」という表現があるということは、平安時代にも書き方の教則本みたいなものがあったのでしょうか?

岩井 いえ、『源氏物語』の中にそういう表現があったということのようです。おそらく当時の人も、墨の濃淡を付けることを美しいと感じていたのでしょうね。

僕たちは正確な臨書(名跡・名筆とよばれる手本を書き写すこと)を試みます。臨書によってそれを書いた人の息遣い、運筆のリズムや呼吸を感じ取り、追体験します。今はそのようにして学んでいますが、こうした美意識は平安時代もそんなに変わらなかったのではと思います。

西村 平安時代に書かれたものを直接見て研究することができますか?

岩井 見られます。三田キャンパスのKeMCo(慶應義塾ミュージアム・コモンズ)では平安時代の古書や漢籍を見ることができます。当時のものからは、やはり息遣いのようなものが伝わってきます。

そういうものに触れると、筆はこんな角度で持っていたのだろうなと想像が膨らみます。自分でも実際に試してみると、筆を起こす角度や紙の置き方など、身体感覚がある程度わかってくるんです。再現してみて見えてくることがたくさんある。運筆のリズムが少しせっかちだな、とか。カリグラフィーにもそういうところはありませんか?

西村 わかります。1000年以上前の写本に対して「ずいぶんと思い切りの良い方ね」と笑ったりします。

生徒たちを見ていると、同じものを見て練習しているはずなのに違いが出ます。その違いがやがて個性になっていくのかもしれません。

 習い始めのころはまず個性を消すように指導されるのですか?

岩井 最初に現れるのは個性というより癖ですね。個性とは真似することで基礎ができてから現れるものだと思います。学問の世界で先行論文をきちんと読むところから出発するのと似ているかもしれません。

ただ、仮名書道の世界では、西暦1100年代ぐらいには大体新しい表現が出尽くしたと言われているんです。900年代ごろに発明され、その後200年ほどの間に花開いた。すでに鎌倉時代の人たちも臨書して真似をし、それが現代にも通じているというわけです[図3]。

図3 岩井秀樹さんの仮名書道作品

個性はすぐに現れない

西村 個性的であろうとして、一本の線がきれいに書けることの意味がわからないまま他人と違うことをしようとする人がいます。違うだけでその人の本当の個性でなかった場合、その文字を書き続けるのは苦しくなる日がくるかもしれません。本当の自分の個性について、焦らず模索してほしいと思っています。

基本を大事に少しずつ質を上げ、いくつかの書体を繰り返す中で手が線を覚えていきます。線が身に付くころには書体の分析も早くなり理解が深まります。すると次第に、全体的に少し華やかになったり、どっしりした感じが出たりと、微妙な違いが出てきます。同じものを目指し修練しているほうが、その違いは大きく現れます。私はそれこそが個性ではないかなと思います。

 やはり基本が一番重要なのですね。ちなみに字が上手、下手という言い方がありますが。

岩井 書で言うと、上手い字といい字は違うのですが、いい字というのはたぶん習って教えられるものではありません。例えば、お坊さんの字などは人となりで書いているところもある。真似しようと思ってもなかなかできません。

西村 そうですね。個性とはつくるものではなく、あるものだと思っています。それは、すぐに出てくるものではない。私が各人に直接指導できる時間は週にほんの数時間なので、それ以外の時間にいかに真摯に文字と向き合ったかも大きく影響します。

 筋トレのようですね。

西村 そう、まさにマッスルメモリーですね。真摯に向き合った人ほど個性は早く現れる気がします。

伝統の中のオリジナリティ

西村 ちなみにAIと桂さんのテクノロジーが組み合わされることによって、ロボットが今後個性のある字を書けるようになる可能性はあるのでしょうか。

 まだ再現させるだけでも苦心している段階です。ミクロに見ると紙、筆や墨といったすべての要素が総合的に関わってきますので、そうした物理現象を再現するのも非常に高度な技術が必要です。

上手・下手というのも何かしらの味付けだと思うのですが、太さや強さを変えたりといったアレンジはおそらく可能です。ですが、0から1をつくるのは人にしかできません。本当にオリジナルな部分は人にしか出せないだろうなと今お話を聞きながら思っていました。ただ、そこに至るまでの訓練の過程で、ロボットが自分で書いた書を客観的に見てフィードバックを得ることはできるようになるかもしれません。

西村 ロボットがどのように成長していくのかとても興味があります。

 コピーしたものはまだ速さと力のデータでしかなく、どうしてこういうふうに力を入れたかとか、なぜここで墨を付け直したかといった意図はまだデータ化できていないわけです。その原因を追究せずに、人間に近づけるのは難しいでしょうね。

西村 岩井さんは東山一郎先生に三十数年師事したそうですが、何十年習っても、師匠と同じ文字にはなることはありませんよね。そこが人の書く文字の面白いところですね。

岩井 東山先生は手本を書かない主義だったので指導の基本は古典の臨書でした。先生曰く「同じ古典を学んでも、俺が学んだものと君が学んだものは取るところが違うから、結果が違うはずなんだ」と。年齢も離れているのに同じように書いているのは不気味だというタイプの人で、先生の真似をしたものはかえって見てもらえませんでした。

そういう意味では、自分で餌を見つけて食べる能力を養ってもらえたとでも言いましょうか。自分を手本にするだけでは動物園の動物だと仰る先生でしたから、その方針はありがたかったですね。

西村 よい先生ですね。

岩井 それでも東山先生が亡くなった時は後ろ盾を失った気持ちになりました。それまで先生には、展覧会に出展する自分の作品を選んでいただいていましたので。けちをつけられたり、俺の趣味じゃないけどねと言われたりしながらも、そっちを出しておきなさいと言ってくれる、そういう先生だったんです。

そんな先生の物の見方を今振り返ると、正しいことを言っていたんだなと気づかされます。先生から言われてきたことが、年齢を重ねるごとに理解できるんですね。

ですから、先生が70代、80代のころに仰っていたようなことは、自分もその域に近づかないと理解できないかもしれません。僕が40代のころにそう感じるようになり、それ以来、先生に対して少し従順になりました(笑)。

 学問もまず基礎を徹底的にやるのですが、研究にはどうしてもオリジナリティが必要です。とはいえ、まったく無の状態から何かが出てくるわけでもない。私も師匠の代から続く理論を押さえた上で、博士課程くらいからアレンジを加えていきました。研究者としては道半ばなので、今のお話はとても共感できます。

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