【三人閑談】
❝数え方❞をめぐって
2022/10/25
数学が「分かる」とは?
曽布川 おっしゃる通り、そこが小学校教育は難しいんです。それに比べれば大学の数学の講義をすることなんかははるかに簡単。小学1年生に今おっしゃったことを教えるのはものすごく難しい。
宮代 具体と抽象を行き来するというのが重要だということですか。
曽布川 はい、それはもうどんなレベルでもそうです。大学のある授業で、それ自体も十分に抽象的なものですが、あるレベルから見てそこからもう2段抽象化するんです。ところが、その抽象化に皆付いてこられません。
しょうがないから具体例として、皆が普通にできるであろうところまで下りてきて、また2段上の抽象化に行って、また戻ってくるということを繰り返しながら、2段上の抽象化を感覚として我慢できるようにする。散々やっているうちに慣れてきてしょうがないと思えると。
飯田 数学は比較的、正解があるではないですか。正解に向かって論理的に考える力を身に付けることが一番大事なことですか。
曽布川 論理的に考えていれば十分だと思います。論理的に考えずに過程をすっ飛ばすワープ技術だけを身に付けようとする人が多過ぎる。ワープ技術だけでは、そもそも覚えるのが苦痛ですから。
このことは私が何十年も考えたことですが、分かるとは何ですかという話に行き着きます。
まず1つ言うのは、「論理的に分かる」は認めない。論理的に分かるというのは、たいてい言葉を連ねただけです。そうではなくて感覚的に分かったと感じられるのが分かったである。そこまで考えろと言うのです。最初は論理的に受け入れて、こういう構造であるなと理解していくしかない。しかし、最終的に感覚的に分かることに辿りついてほしい。
既に持っている経験や知識とどれぐらい深く結び付いているかが大事で、それが一体化したと思えた時に感覚的に分かるんだと思います。
宮代 数そのものは私たちの目には見えないわけですよね。2匹のネコは見えても「2」という数の概念自体は見えません。そういうものを感覚的に捉えられないと数学の世界はわからないということになるのでしょうか。
曽布川 おっしゃる通りで、たくさんやっていくうちに自分の感覚の中で確たるものだと思えるかどうかです。「2」とは何ですかというときに、それを確たるものとして思えた時に「3」というのが分かった、個数が分かったと言えるのだと思う。
いちいちそんなことを考えなくてもできる人は、かなり概念として抽象的なものを認識したと言えるのでしょう。
道具によって数の概念は変わる?
飯田 今、小学校でそろばんをやらなくなりましたよね。そろばんをやらなくなったことで日本人の計算能力や数の概念は何か変わっているのでしょうか。
曽布川 概念や能力が変わったとまではいかないのですが、影響は出てくるだろうと思います。ただ、飯田さんや私が子どもの頃と比べて、まだ数十年なので社会全体を壊すほどのことにはならないと思うし、計算機があるので、あまり表に出てこないんですよね。
ただ、高校だと化学の時間に電卓を使って計算しますが、うっかり2桁間違えて1リットルの水に食塩が2キロ溶けると書いてしまう人がいます。どう考えても、そんなことはあるわけないんだけど、そういうことを平気で書いてしまう。
そういう意味では僕は量の概念が忘れられる可能性があるかと思っています。だからこそ、逆に低学年では身体的・感覚的なものを育てる教科を大事にしたい。
飯田 私もそろばんはそんなに得意ではありませんが、3桁ぐらいの足し引きだと頭の中でそろばんをはじいて答えを出す昭和の人間です。しかし、娘にそろばん的に説明すると全く分からない。この世代差は大きいのかなと感じていました。使う道具によっても計算の概念が変わってくるのではないかと思ったのです。
曽布川 おっしゃる通りです。僕はあちこちで、小学校に上がる前の子どもにあまり数字を教えるなと言っています。概念がよく分からないのに数字を教えてもしょうがないんです。
だけど概念が分からなくても数字の並び方を覚えただけで、極端に言えば高校生でやる積分の計算ができることになってしまう。
「1」の次は「2」で、「2」の次は「3」で、「3」の次は「4」でということが覚えてさえいれば、その延長線上で結果はマルがもらえてしまいます。それは危険だと思うんですね。だから数の概念は訳の分からないものであるというほうが正しいと私は思っていて。数字なんか変なものだと思います。でも、誰も聞いてくれない(笑)。
飯田 確かに、数学ができると頭がいいと短絡的に考えますよね。概念が固まっていないうちに小手先だけで扱えるのは扱えるけど、おっしゃるとおり、いずれつまずいたり誤解が生じたりする気がします。
身体感覚に結び付いた単位
宮代 英語でも同じだと思いますが、少ない量というか長さを表すときに1指分、2指分という言い方をすることがフランス語ではあります。ウイスキー1指分、「ア・フィンガー」と言うのと同じです。こうした表現のように、日本語でも身体に結び付いた、似たような表現はあるのでしょうか。
飯田 単位としてはあると思います。1尺や1咫(あた)のように手の広さを表すものです。「咫」は、上代の長さの単位で、親指と中指を開いた長さに相当します。自分の手に合っているお箸の長さは「ひと咫半の長さがよい」などと言います。
宮代 フランスはフランス革命の時に度量衡制度を一気に変えようとしました。メートルは一番有名な例でしょうが、人為的にいろいろ統一しようと日常感覚と食い違っているようなことも思い切ってやってしまう。暦(革命暦)もその1つだったように思います。
革命暦は1日を10時間、1週間を10日、ひと月を30日にして、各月の名前も変えた。暦は週や月のイメージや体感とも結び付いているはずです。理由はいくつかあるにせよ、人々の生活とそぐわなかったのか、革命暦はやがて使われなくなった。
時間の長さのようなものも身体性かもしれませんが、日常感覚や日常生活とズレてしまうと通用しない単位があるんだなということが、フランスの例では見えてきます。
日本でも尺貫法が変わった時には混乱はあったのでしょうか。
飯田 明治時代は混在して使っていましたよね。ものによって尺貫法をそのまま使ったり、ヤード・ポンド法に変えたり、イギリス式とアメリカ式の数え方が混在したり、かなり混乱はあったと思います。
例えばパンの数え方の1斤(きん)は、1ポンドから来ていて、きちんとした客観的な重さがあったのですが、それも分からなくなってしまって、どんな大きさでもパンの塊は1斤と数えようと決めてしまった。そんな緩くなった例もあります。
宮代 そうすると、1斤は1ポンドではないわけですから単位ではないわけですよね。
飯田 今はいろいろな会社からパンが出ていますが、みんな1斤と呼んでいて重さは違うので、「パンの塊」という意味ですよね。
フランスの中では10進法にしようという考えと、20進法、60進法がよいような考え方のせめぎ合いがずっとあったのですか。
宮代 フランスの中にも、10進法的な言い方で60、70、80、90台の数を言う地域はありました。南や東の一部では20世紀になってもそうであったようです。フランス語を使うベルギーやスイスも10進法的な言い方です。ただ、ベルギーだと80台はフランスのように20進法的な言い方をするようです。
今、SFCにコンゴ民主共和国の留学生が来ています。コンゴ民主共和国の公用語はフランス語です。ただ、数字の「70」と「90」については、フランスとは違って10進法の言い方をするとその留学生は言っていました。
なぜ10進法的な言い方をするのか。同じフランス語を使うとはいえ、コンゴ民主共和国はもともとベルギーの植民地だった地域だからですね。数というのは普遍的なものに思えますが、数がどう呼ばれるかは政治や社会の問題とかなり深く結び付いているのだなと、その時気付きました。
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