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【三人閑談】
❝数え方❞をめぐって

2022/10/25

フランス独特の数の数え方

飯田 宮代さんはフランスにいらした時、数のコミュニケーションで戸惑った経験はありますか。

宮代 戸惑ってばかりです。日本語は10進法ですべての数を数えていくことができますが、フランス語での数え方はどうかというと、10進法、20進法、人によっては60進法が混ざっているという説明の仕方もありますが、結構複雑です。

例えば、70台の数字は「60+いくつ」という言い方をするので、「60+11で71」という捉え方をします。母語がフランス語の方は、「60+11」と言われてパッと「71」という数字が浮かんでくるのでしょうが、少なくとも私の場合はそこに慣れるのが大変でした。

さらに80台の数になると今度は20進法的に、「20」が4個で「80」という言い方をしていくので、だんだん頭がこんがらがってくる。

なぜこんなに面倒な言い方になっているのか。日本語も同じでしょうが、フランス語もラテン語からの影響があったり、その前のケルト系の人たちの考え方が入ってきていたり、言葉には歴史的な経緯が大きく響いています。呼び方の歴史には興味をそそる点がたくさんありますね。

曽布川 当然、数学の中には1つには天文学的なものが入ってくる。だから60進法や20進法や12進法が出てくる理由も、だいたい天文学の話ですよね。1年が12カ月であるとか、歴史を辿ってみると確かに面白い。僕も今回フランス語の数の数え方をおさらいしてみたのですが、これで九九をやれと言われたら苦しいですよね。九九は「4×20+1」ですからね。

宮代 小学校の数学の先生は、教えるのが大変です。10進法の言い方もかつては存在しなかったわけではないのです。「70」、「80」、「90」に相当する言葉もあったのですが、アカデミー・フランセーズや辞書の編纂家たちの意向によって現在のような形に徐々になってきたようです。ただ19世紀末になっても、いわゆる10進法の言い方でやるべきだと述べている辞書もあったりします。

曽布川 あまり見かけませんが2ユーロ硬貨がありますね。ユーロになる前に他の国ではギルダーなど、いくつか2という硬貨を見た記憶があって、こういう文化なんだなと思ったことがありました。日本では2千円札がはやらなかったですよね。

飯田 あれも日本人が2の倍数にあまり親しみを覚えない理由の1つですよね。

曽布川 僕の感覚では、あれは「1」、「2」でいっぱいになったから一塊というような数え方がヨーロッパ人の心の中に染みているのだろうなと感じます。僕も見たことはないのですが、アメリカは2ドル紙幣もあるらしい。

飯田 アメリカだとクオーターといって25セント硬貨をすごくよく使いますね。

曽布川 あれは2つ分けを2回していますね。5という単位も、もちろん指の本数ですが、10進法の塊の半分という意味もあるでしょう。日本人は半分分けと思っているかどうか。あっ、そう言えば江戸時代の金貨は1朱金4枚で1分、1分金4枚で1両小判だった。あれは半分分けかな。

飯田 紙幣や硬貨の単位が一番数の概念を文化的に表しているのかなと思っています。日本人は例えば1・5・10、7・5・3、5・7・5・7・7のように奇数が並ぶと美しいと思う感覚があるのだろうと思います。欧米でも詩歌を読んだときに、並びや音がいくつと数を意識したりしますよね?

宮代 フランスですと、アレクサンドランという12音節の韻律はとても有名です。詩だけでなく、演劇のせりふでも使われています。17世紀の古典劇には今でも上演される名作が揃っていますが、このアレクサンドランが使われています。せりふ1行ごとの末尾の発音も一定の規則で韻を踏むようになっていますから、声に出して朗読すると心地よいリズムになっています。

日本語の助数詞の特徴

宮代 助数詞の話ですが、日本にはたくさんの数え方があります。これは他の文化に比べて特徴的なものなのでしょうか。例えば中国と比べてどうですか。

飯田 日本語は豊富な部類の言語に入ると思います。一応、私が調査した範囲では500種類ぐらい助数詞と呼ばれているものが存在していて、ほとんど文献や一部の専門家しか使わないものもあるのですが、日常では120から130ぐらいは普段からよく使われている。これくらいが、大人の母語話者であれば使いこなせて当然という感覚のようです。

中国語も量詞というものがあって、これも調べると500ぐらいあるらしいです。だからある言語においてマックス500ぐらいまであると十分にいろいろなものを数え分けることができるというのが、人間の認知的な共通の感覚なのかなと考えています。

他に韓国語やインドネシア語やチベットの方言でも助数詞があって、日本語だけの特徴というわけでもない。ただ、これだけいろいろなものが数え分けられて、ホームランと傘と鉛筆が同じ「本」で表される、枠組みの広さは日本人独特の感性かと思っています。

曽布川 ホームランを1本と数えるのは、やはり日本人独特ですか。

飯田 そうですね。日本語の数え方が独特で面白い感性だなと思うのは、形や機能に結構飛び付くこと。例えば1枚、1面、1個など形にくくりを付けたり、あるいは1台の車もあれば1台のパソコンもあれば、1台の機械など、台も広く使われる。

色や柔らかさや食べられるか食べられないかのような、もっと大事なことがありそうなのに、あえて機能や形に着目して全然仲間に見えないものも一緒に数えてしまうところは、すごく大胆で面白いと思っています。

曽布川 飯田さんの本にロボット犬は1台と言うか1体と言うか1匹と言うか、というお話がありましたね。機能によって、どんどん状況が変わっていくというお話でした。

飯田 そうですね。だからその人が主観的にどう捉えるかによるのです。ただの1台のロボット犬であっても、ペットの代わりにかわいがっている人にとっては「1匹」であったり、ひいては「1人」と数えたり。

ドラえもんの数え方を大山のぶ代さんに聞いたことがあるのですが、ドラえもんは「1人、2人」だと大山さんはおっしゃいます。製造した段階ではネコ型ロボットだから1台かもしれませんが、のび太君を助ける特別な存在ということで、絶対に1台と数えてはいけないとおっしゃっていました。

曽布川 数学屋の言い方で言うと、何と何を対応させているかの話になると思います。対応のさせ方が人によって違う。同じものだけれど、対応のさせ方は主観で変わってくるということです。

だから、黄色いチューリップ2本と白いチューリップ3本と赤いチューリップ5本は違うものだから一緒に対応させてはいけない、つまり足してはいけないんだと思う子がいるわけです。これはある意味正しい。

飯田 これを哲学的に分析すると、色が違うことで物も違うと考えた方がいいんですか。

宮代 人がどのように物と数を対応させるかは、かなり言語や文化によって変わってくることでしょうし、具体性を持った物から、概念としての数と捉えること、そこにはある種の断絶があると思います。

それこそネコ3匹と豆腐3丁は同じ3だと捉えるのが数としての「3」なのでしょうが、そこの抽象化は哲学的にも興味深いことのように見えます。

「数学とは、それぞれ違うものに対して同じ名を与える技術である」というとても有名なポアンカレの言葉がありますが、それは抽象化・普遍化の人間の能力かなと思います。具体的なものと結び付いた数の捉え方から一歩先に出るのが人間の能力なのでしょう。そういう意味で数を扱えることは、哲学では例えば古代のプラトンがとても重視していて、国家の指導者は算術を学ぶべきだとも言っています。

定冠詞を持つ言語文化の世界

宮代 私自身がフランス語でつまずいた例を挙げると、私が中学、高校で習った英語では、「数えられるものと数えられないものがある」という言い方で教わって、フランス語でも似たような教わり方をしました。

例えばコーヒーのようなものは数えられないんだというわけです。そこで、「ある一定の分量のコーヒー」という言い方をするのだと。こうした可算・非可算の違いは、名詞に付く定冠詞、不定冠詞、部分冠詞で示されると説明されました。

でもよく考えてみると、例えば喫茶店に行って「ある一定量のコーヒーを下さい」と言ってもどのぐらい来るか分からないですよね。当然ながら、実際の言語の運用では、もちろんコーヒー1つ、2つと言うことができます。

昔の教科書ではフランス語には数えられない名詞と数えられる名詞があると書かれているものもありましたが、比較的最近のはそうではない。話し手が対象を数えるものとして捉えているか、数えないものとして捉えているか。あるいは、聞き手に数えないものとして伝えたいのか数えるものとして伝えたいのかによって、冠詞の使い方が変わるのだと説明されていて、なるほどと思います。確かに実際の運用でも、言葉の仕組みとしてもそうなっている。

ですから恐らく日本語の1匹か1人かと考えるのも、話し手がどのように捉えているか、どう聞き手に伝えたいかということと関連している面はないでしょうか。

飯田 定冠詞を持っている言語は、かなり輪郭がはっきりした概念を持っているイメージがあって、言語の分類からいくと助数詞も特に必要としません。

定冠詞、不定冠詞もなく、文法上のジェンダーがない言語は名詞自体の輪郭が非常にぼやけてくるので、数える際にはクッキー型で抜くような感じですが、抜いたものを数えることで枠組みが助数詞の役割になっていると私は仮説を立てています。

世界地図で見ると米作りをしている地域は助数詞をたくさん持っている傾向が強いんです。一方、かつて狩猟民族がいたようなところでは、複数形があったり定冠詞・不定冠詞の区別があったりする。生活様式によって名詞の感覚がだいぶ助数詞に影響を与えていると考えています。

曽布川 小学校の算数教育で言うと、数は1個、2個である個数という概念と、もう1つ、量の概念があります。量の量り方がすなわち単位なのだろうと思うのです。

飯田さんが本に書かれている、単位とは置き換えが利くものであるという見方は、1つの見方としてもちろんいいのですが、量をどう捉えるか、それを数の形に変換するのが単位であるとも言えるわけです。狩猟であれば、ウサギを1匹捕った、2匹捕ったで済むわけですから個数の概念で済むんでしょうけれど、穀物だとそうはいかないから量の概念が大事になってくるのではないか。

実はここは算数教育のポイントでもあります。1個、2個と数えられる数の話はいいのですが、問題は分数です。分数には量の概念が入ってきてしまう。3分の1は全体があってそれを3つに割ったものです。量の概念がゴチャゴチャ入ってくるので分数は難しいのです。

だから3分の1+2分の1は5分の2ではないのが子どもは分からない。数だと思えばそれでいけそうな感じがするのに、そうではなくて量の概念だから違う定義をしている。

飯田 量をしっかり把握するには客観性も重要ですよね。何かを取引する際に自分にとってはたくさんだと言っても相手には少ない量だったりすることもあると思うので、離れた人たちが貿易をする際に、しっかりと量の単位化をすることが重要だったのではないかと思います。

うちの娘も分数にはすごく苦労していて、あれは通分させたり約分したり、また次なる技術が必要ではないですか。そうするとバケツに水を何杯入れてという具体性に戻ってしまうので、せっかく抽象化した算数の能力がまた具体化しないと理解できなくなる。行きつ戻りつがもどかしい感じはします。

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