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【三人閑談】
❝数え方❞をめぐって

2022/10/25

  • 曽布川 拓也(そぶかわ たくや)

    早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授。1992年慶應義塾大学大学院理工学研究科数理科学専攻後期博士課程修了。博士(理学)。専門は数学、特に実函数論、算数・数学数育。著書に『数学的に話す技術・書く技術』(共著)等。

  • 飯田 朝子(いいだ あさこ)

    中央大学国際経営学部教授。1995年慶應義塾大学大学院文学研究科英米文学専攻修了。99年東京大学人文社会科学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は言語学。著書に『数え方の辞典』等。日本ネーミング協会理事。
  • 宮代 康丈(みやしろ やすたけ)

    慶應義塾大学総合政策学部准教授。2000年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2011年パリ・ソルボンヌ大学(パリ第4)博士課程修了。博士(哲学)。専門は政治哲学、フランス哲学・思想。

ニューギニアのある部族の数え方

飯田 私は日本語の助数詞の研究をしてきました。助数詞は物の捉え方を研究する分野で非常に面白くて、欧米にはない概念です。

例えば鉛筆1本と傘1本は全然違う物なのに、何で同じ数え方をするのだろうとか、ホームランは別に形がなくボールは丸いのに、何で1本と言うのだろうとか、海外に行くと「論文1本書いた」と言うのはなぜかと、よく聞かれるんです(笑)。

今留学生を指導していますが、かなり日本語が流暢な学生でも助数詞は相当難しいようです。日本人として生きてきて自然に習得してきたことを、どうやって外国人に理論化して、それを分かりやすく説明するかを、ずっと研究し続けています。

曽布川 私は算数・数学教育にかかわる立場ですが、最初に申し上げたいことは、誰がどう考えても鉛筆6本とノート5冊を足してはいけません。これは問題として間違っています。岡山大学の教育学部にいたときに、小学校の先生向けにそのことを口を酸っぱくして言っていました。

白いチューリップ2本と黄色いチューリップ3本と赤いチューリップ5本を足してはいけないと思っている子どももいる。その発想の方が正しいんです。

まず、「数えることの身体性」の話からいきたいと思います。下記の論文の図は、パプアニューギニアのある部族の、ものの数え方についての文化人類学の論文です。左手の小指から順に1、2、3、4、5、手のひらが6、手首が7、前腕部が8、肘が9、上腕部が10、肩が11、肩甲骨が12と、そうやって後、右に移って、37まで物の数を数える。このときには数という「概念」ではなくて「身体」に対応させて状況を把握する。これが一番原始的な数の数え方なんですね。

パプアニューギニア・ファス族の数と対応する身体の部位(「〈37〉と〈38〉?:パプアニューギニア、ファス族の数の数え方について」栗田博之[『民族学研究』49 / 3、1984年12月]より)

飯田 面白いですね。左から右に37まであるという捉え方ですね。パプアニューギニアの人たちは、小さい数は左側にあって大きな数は右側にあるような身体感覚を持っているのでしょうか。

曽布川 あるかもしれませんね。37を超えたら2周目が始まるんです。

飯田 38から始まるんですか?

曽布川 38という概念はもともとなくて、左手の小指、左手の薬指という感覚です。右手まで行くと今度は左手からもう1回やり直していく。37より大きな数を数えることはほとんどなく、あれば2周目という言い方をするらしい。

飯田 では37進法のような感じでもあるわけですよね。

曽布川 そういうことですね。

宮代 10進法、20進法はよく知られていて、その起源は10進法の場合は人間の指が10本で、20進法は足も入れると20本になることだと。どこまで本当かは分かりませんが、そういう説明がされると思います。

このパプアニューギニアの例を見ると、足には行かずに頭の方に行くのがなかなか興味深いですね。数える時に、どの指から数えるかは文化によって違うのですか。

曽布川 違いがあると思います。やはり右利きの人が多いから左から数えるのでしょうね。

飯田 右手で指しますからね。指の関節で12進法を数える文化があると聞いたことがあります。1、2、3、4、5、6みたいに、4本の指に3つずつ関節があってそれを親指で示すことで12の数を表して、1ダースを1つ数えると折っていくような文化もあって、指だけで完結するものもあれば上半身を全部使うものもある。面白いですね。

宮代 古代ローマの頃は、1万くらいまでは両手の指を使って表すことが行われていたと聞いたことがあります。そのやり方でラテン語をしゃべらない、ローマの側から見ればいわゆる蛮族の人たちとの商売も成り立っていたと。

曽布川 極端な話で言うと、「手で持って1個、2個、ああもう持ちきれないから、たくさん、お手上げ」なんです。体で数えている話なんです。当然そこには数としての抽象的な概念はなくて、1対1対応の話しかないと思います。

飯田さん、日本語にたくさんの助数詞があるのは考え方として1対1対応の話ですよね。

飯田 まとめて数えたりもしますが、日本語だと両手を使うことはあっても頭をグルっと回って、奇数で終わるということはないと思います。時々、指を折ったのか伸ばして数えたのかという議論は起こっていて、万葉集の恋の歌では、あと何日待てば君に会えるだろうと、指を折っています。だから日本語は指を折る文化で、アメリカは指を出して指していきます。フランスもそうですか。

宮代 フランスはアメリカと同じです。ただし数えるときに親指から始める仕草を見かけます。だいたい薬指、小指に来るとうまく上げられないぞという感じになります。

曽布川 指が動かないですよ(笑)。

宮代 数える時に、ただ指を上げるだけの方もいますし、逆の手で1つずつはじきながら、1、2、3と数えていく方もいます。日本は折っていきますよね。

具体から抽象へのジャンプ

曽布川 僕がなぜこの話を出してきたかというと、「1対1対応=数える」だと思っているからです。飯田さんがおっしゃった、「まとめて」というのも、まとめたものを1として対応させているわけです。

数学では写像という言葉を使うのですが、何と何を対応させるかという数え方があって、基本は1対1対応をすると。でも、何に対して1対1対応をするかが問題で、今の指を折っていくのか伸ばすのかという話も全部、体の部分と1対1対応するというのが数えることの基本的な立場だと思います。

宮代 つまり、必ず具体的な対象があるという考え方ですか。

曽布川 そうです。だから小学校の教育が一番難しい。例えば、足し算する時に、「3+5」を1つずつ数えて足していく、「数え足し」という段階を良しとするのか、それともそこから離れて「3」と「5」という概念を思えと早く言うかということがある。

この、抽象的な概念へのジャンプはかなり小学校低学年では難しい。だから私は体を使って徹底的に数えさせてしまえと思っています。人間ですから、知能が発達すればどんどん勝手に抽象化していくのだと思うのです。

飯田 抽象化はすごく難しいですよね。私は小学生の子どもがいるのですが、指を折って数えているうちは計算はそれほど苦手ではありませんでした。だけどおはじきに置き換わったり、棒を「10」に見立てるようになると、先生は当然のごとく、この棒は「10」だから「13」は棒が1つとおはじき3つとおっしゃいますが、いきなり形も数え方も変わって分からなくなってしまう。

今、曽布川さんがおっしゃった通り、そこはすごく大きな壁で、小学校の先生は夢中で進めていきますが、そこのジャンプが上手くできるかできないかで今後の算数の理解がだいぶ違ってくるのではと感じます。

曽布川 全くおっしゃる通りです。私がよく言うのは、小学校低学年から下の主要3教科は図工、体育、音楽だということです。

身体性を前に出し、それを夢中にやることで、それが最終的に数の概念につながっていくんです。だから、将来子どもが算数をできるようにさせたければ、できるだけ外で遊ばせなさい。ジャングルジムを上らせておきなさい、テレビの音楽に合わせて踊らせておきなさいと言います。

飯田 その通りですね。音楽も音符は何音符、何拍子と、算数で倍数も約数も習わないうちから4分音符がいくつ分だと先生はおっしゃるのだけど、みんな全然分かりません。

そのあたりもリズム感や日常にある半分がこれぐらいの感覚というようなことを重視して教えなければ、いくら概念的に教えても身に付かないと感じます。

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