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【三人閑談】
歴史のなかの猫たち

2022/06/24

「ネズミ捕り」で地位を上げたか?

金子 明治に入ると猫の評価はどうなったのでしょうか。

真辺 政治的には明治維新でガラッと変わりますが、文化的には明治期の特に前半は江戸からの連続性がかなり強いので、人と猫の関係もそんなには変わっていないですね。

志村 犬は明治維新でポインターやセッターといった猟犬が輸入されます。それでガーンと地位が上がるんですけど、猫は、明治以降、洋猫がどんどん入ってきたり、ある品種が流行したりってことはあるんですか。

真辺 いや、戦前はほとんどないです。政治家などでシャム猫を飼っていた人もいることはいますが、ごく一部ですね。戦後になって占領軍の人たちがシャム猫を連れてやってきて、そこから日本社会に広まっていくような形です。

志村 犬が輸入されて飼われるようになるのは、猟犬などの実用的な面に加えて、社会的ステータスですね。散歩に連れていくと、「ああ、あの人、いい犬持っている」と尊敬される。

金子 絵画作品でもそういうのがありますよね。橋本関雪(1883~1945)という動物を描く名手がいるんですが、ボルゾイとグレーハウンドを描いていて、もう見るからにゴージャスな絵です。ああいうのを見ていると、本当に洋犬はステータスだなと思いますね。

真辺 猫は猟の手伝いはできませんが、唯一有用と言われるのがネズミ捕りで、江戸時代からその目的で飼う人が多かった。特に開国後、海外からいろいろ疫病が入ってきます。すると、ロベルト・コッホが明治41年来日した際、弟子の北里柴三郎がペスト予防のためのネズミ駆除対策の教えを乞うと、「猫による駆除が効果的」と言うので、国家を挙げて「猫を飼え」という運動をやった時期があったんです。

ただ、それは本当に猫の地位の上昇と言えるのか。あくまでネズミ捕りという目的のために猫が大事にされたわけなので。実際その後、殺鼠剤のほうが効果があるとわかると、そういう動きもすぐやんでしまう。すごく一過性のものだったわけです。

「かわいがり方」の変化

金子 猫はいたずらをしますし、問題も起こす。それでもみんな飼っていたのは、やはりかわいらしさがカバーしていたのですかね。

真辺 かわいがり方にもいろいろありますよね。志村さんの『熊楠と猫』の中でも描かれていますが、今と昔の猫のかわいがり方では結構違うところがある。熊楠なんかも、汚れて帰ってきた猫を蹴飛ばして追い出したという記述がありますね。

犬猫どちらも、動物と人間の序列が厳としてあり、動物はそんなに大事にするものじゃない、ということが根本にあった上でかわいがっている。だから動物を愛している人が、今から見ると虐待じゃないかということを結構していますよね。

金子 その話はよくわかります。私の祖父母は明治生まれでしたが、動物を決して虐待しているわけではないんだけど、私から見たら、すごく乱暴に扱っているなと思うことがありました。

志村 熊楠はすごく気まぐれな人だったこともあり、猫に対する態度も本当に不安定ですね。すごくかわいがって一緒に布団で寝たりすることもある一方、どら猫が家に来て悪さをしたりすると毒餌を仕掛けて殺したり。

真辺 自分の飼っている猫は大事にしても、そこらへんを歩いている猫は大事にしない人は、昔は結構多いようですね。

金子 そのあたりは現代人からすると、ちょっと理解不能なところですが、自分の所有物の延長という感じでしょうか。

猫の近代

金子 熊楠は、動物の中でも猫を偏愛していたということですか。

志村 それは言えると思います。熊楠はいろいろな動物を飼っていて、犬、鳩、イモリ、蛙、亀のほか、サソリを大陸から送ってもらって飼ったりもしていますが、だいたいの動物には名前を付けない。

猫だけは「チョボ六」とか「チョコ」と名前を付けて、日記にもしょっちゅう出てくる。名前を付けるかどうかは1つの分かれ目かもしれないですね。一方で漱石の猫は名前は付いてなかった。

真辺 そうですね。「名前はまだない」という。

志村 でも、あれは1匹だからできることですよね。うちの実家も最初に猫が来た時は名前を付けたんですが、そのうち「猫ちゃん」としか、みんな言わなくなった。

真辺 昔は割と複数の名前を持った猫がいましたね。家の外を出入りするのが普通なので、あちこちで餌をもらって、それぞれの家で違う名前が付けられる。今はもう室内飼いが中心になったから、そういうことはなかなかないですけど。

志村 うちの猫の1匹も3カ月ぐらいいなくなったことがあって、ある日、母が近所を歩いていたら、ある家に「あれっ、うちの猫がいる」って。向こうも「あっ」って感じでちょっと気まずそうに寄ってきて。でもうちにいた時より太ってた(笑)。

金子 栄養がよかった(笑)。ちゃっかりしていますよね。

真辺 江戸の物語の中に出てくる猫は、擬人化されて人間のような行動をしますね。もちろん、漱石の猫も擬人化はされていますが、基本的には人間に飼われている猫の地位を超えるようなこと、つまり化けたり、何かを持って戦ったりとかはしない。

そういう意味で、猫は猫として描く、人間と違う存在、動物としての猫がだんだん定着していくのが近代の特徴だと思います。江戸時代の化け猫も基本的には人間の延長線上ですよね。そういう意味で、近代に入るとそこが変わってくると思います。

金子 江戸時代の猫は、確かに思いきりキャラクター化されていますよね。おっしゃったように、近代の猫は自然主義というか、猫のありのままのありようが一応尊重されている。

真辺 絵画でも猫の近代的な描き方というのはあるのですか。

金子 例えば、長谷川潾二郎(りんじろう)なんていうものすごい猫好きの洋画家がいます。潾二郎が描いた、眠っている猫の絵はかわいいですが、あれは国芳の猫なんかとは、もう一段違う、ありのままの猫の様子です。

近代のリアリティということだと思いますけど、加えて潾二郎の作品を見ていると、「自分は猫好きですよ」と言っているかのようです。猫好きの自分を表現するというのが近代にはあるのかなという気もしますね。

志村 確かに、自分が猫好きだと表現するのは1つの社会的メッセージですものね。SNSで猫写真をあげるのも、もちろんそうですし。

金子 そうですね。横尾忠則さんは猫をずっと描いているけれど、あれなんかも横尾さんの気持ちが伝わってきます。

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