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【三人閑談】
セルフビルド(自力建設)に挑む

2022/03/24

  • 岡 啓輔(おか けいすけ)

    セルフビルダー、大工、ダンサー。1986年有明工業高等専門学校卒業後、鳶職、鉄筋工、大工などを経験。88年から高山建築学校に参加。2005年から三田・聖坂で蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)を自力建設中。

  • 青木 真(あおき まこと)

    ハーフビルドホーム代表取締役。1997年慶應義塾大学大学院経営管理研究科修了。会社員を経験後、2000年に那須へ移住し、自宅をセルフビルドで建設。DIYによる住まいづくりの魅力を伝える。

  • 松川 昌平(まつかわ しょうへい)

    慶應義塾大学環境情報学部准教授。1998年東京理科大学工学部建築学科卒業。専門はアルゴリズミック・デザイン。湘南藤沢キャンパスでスチューデント・ビルト・キャンパス(SBC)計画を推進。

英国のコテージガーデンに憧れて

青木 最近、住宅専門誌などで「自力建設(セルフビルド)」という言葉をよく目にするようになりました。私も留学先の英国コッツウォルズ地方でコテージガーデンを見たことをきっかけに、22年前に那須の自宅をセルフビルドで建てました(写真1)。家と庭が一体になったような英国のコテージガーデンを見てとても感激し、家づくりを一から勉強して妻とセルフビルドに挑戦することにしたのです。家を建てた経験が私の人生観を変え、その後、同じ那須で2003年にハーフビルドホームという設計会社を立ち上げました。

会社を設立した動機は、他の人も私たちのように、セルフビルドで自分たちの手で家をつくってみたいという需要が潜在的にあると思ったことです。会社でこれをサポートするシステムを事業化しました。これまでに約130棟の住宅を手がけましたが、最近はテレビでもDIYの番組が増え、昔に比べてずいぶん身近になっているのを感じます。

松川 青木さんの自宅はすべてご夫婦で建てたのですか。

青木 そうです。屋根や外壁もすべて妻と二人で仕上げました。屋根はレッドシダーシェイクという木材を使い、板葺きで仕上げています。庭も全部自分たちでつくりました。

松川 すごい。何歳の頃ですか。

青木 30代です。若かったからできたのでしょうね。

 こんなに緑が豊かな家は奥様もうれしいでしょうね。どうして那須だったのでしょうか?

青木 以前から田舎に住みたいとは思っていました。軽井沢や八ケ岳まで土地を見に行ったりもしていたのですが、たまたま那須にペンションを開いている先輩が「いい土地があるよ」と言うので、即決しました。

松川 ハーフビルドホームのお客さんにはどんな人が多いのですか?

青木 大きく二つの志向のお客様に分かれます。一つは私たちのようなこだわりの家を自分たちの手でつくりたいという人です。他の工務店やハウスメーカーではできないから、と訪ねてきます。もう一つは予算が少ないけど妥協はしたくない、だからがんばって自分の手でつくるというお客様です。

「俺がすごい家をつくってやる」

松川 岡さんも三田の聖坂沿いの土地で、ご自宅の「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」をセルフビルドで建設中ですね。2005年からつくり始め、今も鉄筋コンクリートで建て続けていると聞いて驚いたのですが、自分でつくるきっかけはどんなところにあったのでしょうか。

 僕は30歳まで、1年の半分ほどを建設現場で職人として働き、残りの半分は自転車で日本中の建築をスケッチして回るという生活をしていたんです。現場では土木工事や鉄筋工事、型枠大工、鳶職など、色々な職種を経験しました。大きな挫折もなく、割と思いどおりの人生だったんですね。

その傍らで、法政大学で教鞭を執られていた建築家の故・倉田康男先生が1972年に始めた高山建築学校という私塾にも毎年通っていました。そこで建築家の哲学みたいなことも学んでいたのです。

ところが、30歳をすぎたころに体調を崩してしまい、もう建築家になる夢は諦めるしかないと思い詰めるまで気持ちが落ち込んだのです。

そんなどん底状態にもかかわらず結婚をし、ある時、妻から「自分たちの住む家をつくろう」と言われました。僕が正直だったなら「ちょっと俺には無理」と言えたのですが、血迷ったことに「俺がすごい家をつくってやるから任せとけ」と言い切ってしまったのです(笑)。

松川 その一言が岡さんの人生を決めてしまったんですね(笑)。

 とはいえ、最初は何をつくっていいかわかりませんでした。ひとまず2000年ごろに聖坂沿いの土地を買ったのですが、着工したのは5年後のことです。

青木 5年間、どうしていたのですか?

 何をどうつくればいいか、ずっと悩んでいました。ようやく踏ん切りがついたのは、これ以上悩んでもしょうがない、自分がそれまで学んできたことを信じようと覚悟を決めた時です。

松川 それにしても5年というのは長いですね。

 そうですね。つくり始めた当初は闇雲に手を動かしていたのですが、少しずつ形が見えてきて、次第に自分なりのつくり方がわかってきました。すると見に来てくれる人も増え、自分では気づいていなかったようなところを「ここがいいね!」なんて言ってくれるようになったんです。そんな感じで自信を取り戻しながらつくり続け、今に至っています(写真2)。

学生がつくるキャンパス

松川 私が勤務する湘南藤沢キャンパス(SFC)でも、学生たちが建設に参画する「Student-Built Campus(SBC)」というプロジェクトを進めています。SFCは郊外型キャンパスなので、学生が寝泊まりしながら研究教育できる宿泊施設をつくることが悲願でした。そこでこのプロジェクトを「未来創造塾」と呼び、槇文彦さんの設計で2008年ごろまで建設計画が進んでいたのです。

ところが、施工業者を決めるタイミングでリーマンショックが起こり、暗礁に乗り上げてしまった。計画が再び動き出したのは、SFCが25周年を迎えた2015年です。その前年ごろ、業者がいないなら自分たちでつくればいいという話が持ち上がり、五年ほどかけて木造平屋の小さな建物を増やしていくプロジェクトに発展しました。今は全7棟が完成した状態です(写真3)。

SBCは宿泊施設を建設するとともに、学生自身が設計や施工に関わることで学びにつなげ、研究にも役立てることを目指しています。「未完のキャンパス」というコンセプトのもと、つくることを学ぶと同時に壊すことも学ぼうということで、当初の計画の5年が経った今も、授業で家具をつくったり、内装を変えたりしながら続いています。これを20年、30年と続けることも目標の一つです。僕も大学のシステムの中で「つくりながら壊す」を実践することにおもしろさを感じています。

青木 学生さんはどのように関わってきたのですか。

松川 おもに設計です。教員らが構造や法規、技術の面をサポートしながら、学生たちが図面を引いたり、模型をつくったりしてきました。施工面でも建設会社のアルバイトというかたちで、学生に瑕疵担保責任が生じないように参画できるスキームをつくりました。

 アルバイトだと、どこまで関われるのですか?

松川 最初は塗装程度だったのですが、7棟つくる中で少しずつ範囲を広げていき、最後は躯体金物や構造を補強するブレースの取付けなども担当していました。

青木 当社ではスタッフが現場でお施主さんに手取り足取りレクチャー・サポートをすることで、お施主さん自ら内装を手がけています。

こうしたスキームがもっと広がると家づくりも楽しくなるのですが、日本では、施主の責任と建設会社の責任の線引きがとても難しいという事情もあります。SBCの場合、これは学生の勉強なんだともっと大雑把に捉えて既存の制度や瑕疵責任と関係なくできれば、学びの幅も広がることでしょうね。

松川 そうですね。法規を根幹から変えていくのはたいへんな労力がかかります。アルバイトで学生を参画させる手法は、既存のシステムをハックする発想から生まれたものでした。つまり、あるシステムを本来の目的と違う用途に読みかえて使うアイデアですね。

 学生の学びを中心に考えて生まれたアイデアですね。

松川 おっしゃるとおり、アルバイトの立場なら保険制度も適用できる上、学生と大学、建設会社が三方よしになる仕組みです。

写真1 22年前に青木さんがセルフビルドで つくった那須の自宅と庭
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