三田評論ONLINE

【三人閑談】
❝旅行記❞を旅する

2021/10/25

実録とフィクションの狭間で

原田 『ガリバー旅行記』には日本についての描写があります。『ガリバー』は1726年に出ていますので、日本は鎖国の時期。それで、日本では知られていませんがこの時期、ヨーロッパでは日本についての言及のある本がたくさん出ています。

例えば『ロビンソン・クルーソー』は無人島で暮らして戻ってきますが、実は続編があり、ユーラシア大陸を旅するのです。インドを経て中国へ行き、それからシベリアを経てヨーロッパに戻るという大旅行で、北京に入る前にクルーソーは日本へ行こうとします。ところが、日本は野蛮で危険だからというので周りに諌められ、結局、クルーソーの若い友人が日本へ行って8年過ごすことになる。デフォーという作家は、実録をベースにしてフィクションを作っている人なので、手元に十分な情報を集められず、そういう扱いになったのだろうと思います。

一方で、『ガリバー』を書いたジョナサン・スウィフトは、フィクションの巨人で、何か、創作のための重要なインスピレーションを日本から得たような感じで書いている。

田中 デフォーにしても、スウィフトにしても、実際の旅の経験をもとにしたのではないのですか。

原田 デフォーは、無人島に行くような旅はしていませんが、イギリス国内はよく旅をしていて、実はイングランドのスパイとしてスコットランドに潜入したりしていました。非常に精密で、各地域の人々の政治信条もよく分かる『グレート・ブリテン島周遊記』という実録旅行記を残しています。

スウィフトは、実録は書かなかったのですが、ダブリン出身で、ダブリンとロンドンを生涯に16回往復したと言われている。旅の距離は短いですが、そういう往復は、『ガリバー』的空想旅行の想像力に結び付いてきますね。

田中 イギリスでは、空想旅行記と、実際に行って書かれた旅行記の2つのジャンルがあるのですか。

原田 そうですね。いわゆる『ガリバー』のような、ファンタジーに近い空想旅行と、いわゆる旅行記風の紀行文、それと、例えばジェームズ・クックなどの精密な実録があります。クックの航海日誌は軍事機密なので、50年は海軍で保管されます。ただ、あちこちを探検航海するにはお金がかかり、革命後の王室にそんな財力はないので、国民的関心を巻き起こすために本を作るのです。これがいわゆる探検航海記です。

ですから、ジェームズ・クックをはじめとして近代の探検航海の主立った航海記は、実は最初は、国王の肝いりでゴーストライターが書いて、非常に冒険性の強い形で出ている。最近ようやく秘密解除になり実録が明らかになってきました。

田中 例えば、ヘンリー・スタンリーのアフリカ探検記を今読むと、本当に誇張されていて大衆文学を意識して書かれている感じがあります。「矢が飛んできた、伏せろ!」みたいに、もう冒険活劇映画を見ているようです

違う世界を生きる人々

原田 田中さんは、もちろんフィクションということはないと思いますが、物語性みたいなものを入れたくなる誘惑はありますか。

田中 それはありますね。私は1960年生まれですが、60年代から70年代にかけては、ベトナム戦争やカウンターカルチャーの影響があって、とくにインドについては近代文明が失ってしまったものを投影するような書き方をした旅行記が多かった気がします。なかなか外国へは行けない時代でしたから、そこに書かれたインドが本当のインドだと勘違いしてしまう。

けれども、実際に行ってみると、そうそう神秘的なことなんか起きないし、当時の旅行記にありがちな「キラキラした目をした純粋な子ども」みたいな描写も、顔の造作がちがうだけで、じつはこすっからかったりすることもある。ただし、そういう見方にも自分のものの見方の偏りが投影されていないわけではない。いずれにしても、人は物語を通じてしか、自分の見たものや聞いたものを認識できないのではないかと思います。そういう意味の物語性からは逃れられないですね。

エルサレムに行った時、こんなことがありました。空港からタクシーに乗り、エルサレムの旧市街まで行ってほしいと言ったら、パレスチナ人の運転手が、「エルサレムなんか行かない。アルクドゥスに行く」と言う。パレスチナ人にとっては、あそこはアルクドゥスという場所なんです。

エルサレムは、ユダヤ人やキリスト教徒たちの生きている世界に存在していて、パレスチナ人はアルクドゥスという世界を生きている。空間的には同じ場所であっても、それぞれの所属する文化に応じて、違う名前や違う文脈の中にその場所を位置付けて物語化している。

複数のレイヤーが重なっているような感じで、それぞれの人が、それぞれのレイヤーを生きている。これは今の時代の特徴でもありますね。書く側からすれば、どのレイヤーのどこを書くかで、無限に違う記述が生まれるのだと思います。

長谷部 ご自身のことをどの程度、旅行記述のなかで出していこうと思われていますか。

田中 いろいろな形を試していますが、私は、基本的に情報はあまり書かず、あくまでもその場所にいる人、カイロだったらカイロにいる人がどういうスタンスで何を感じながら、何を見て生きているのかに興味があります。

エジプトに住んでいるこのおばさんは、一体何を大事にしているのか。人は誰でも幸福になりたいけれど、必ずストレートには幸福になれなくて、何か妨げているものを抱えている。そういう矛盾の中にある人間のあり方みたいなものを、いろいろな土地の中で描きたいと思っています。

原田 田中さんの『孤独な鳥はやさしくうたう』は素晴らしいですよね。まさに切り取り方というか。短編小説のように切り取ったものが非常にきれいに並んでいる感じがして。

田中 有り難うございます。

旅行記の描くリアリズム

原田 私は授業で、文学におけるリアリズムを教える時に、『ロビンソン・クルーソー』でクルーソーがハリケーンに遭って12日間嵐が続いたというところの、船員たちは生きた心地がせず、恐怖のあまり何もできずに12日間を送ったという描写を使うのですね。

学生に、この文で、一番の嘘はどこかと聞きます。大体ハリケーンの方向が違うとか、緯度が違うと言うのですが、実は一番の嘘は、「12日間恐怖のあまり何もできなかった」という部分です。

当時の帆船で12日間何もせずにいたら、たちまち沈没してしまう。それを船員たちが恐怖のあまり、何も手につかなかった、と書いたところがデフォーのリアリズムなのだ、これはヨーロッパにおける文学的発明だと話します。

旅行記では、それをやらないと読み物として成り立たないんですね。30分ごとに帆を変えて云々と記録していたら読むに堪えないものになる。12日間、船員たちは恐怖のあまり動けなかったと書くのが旅行記の醍醐味だし、リアリズムの原点になっているのだと思います。

田中 本当にそうですね。私も、アフリカを旅行している時、圧倒的に動いている時間より待っている時間が長かった。何もないような村で、船を待つと本当にやることがない。でも本当は何かやっています。食べていたり、トイレへ行ったり、水浴びしたりしているのだけど、自分の中では本当に何もすることがないまま2週間がひたすら過ぎていく。

でも、それをそのまま書くと、読むほうはとても感情移入できない。その言葉にならない2週間の、待っている感じみたいなものが表現できると、その旅行記にはリアリティーが出てくるのだと思います。

アフターコロナの旅のかたち

田中 コロナ禍になり、移動が難しくなってしまったのはとても残念です。人はとにかく昔から移動していたのだと思います。

人間が動物と違う点の1つは縄張りがないことです。もちろん、現代の世界では国境はありますが、それは生物学的な縄張りとはちがう。動物は基本的に自分の生存にかかわる範囲でしか移動しません。

しかし、人間は、直接生存にはかかわらないこと、例えば「驚異的なるもの」や何か大事な価値を見出すためにも移動する。しかも、イスラーム世界の旅がそうだったように、そうやって移動してきた旅人を拒絶しない。違う人がいきなり訪ねて来ても攻撃しない。

それによって、互いの情報や持っているものを交換したりしてきた。そういう営みが、人間の文化を練り上げてきた。その意味でも、旅をすることは人間にとってすごく大事なことなのだと思います。

コロナもそうですが、2000年代に入ってグローバル化が進んだことで旅のリスクが高まった面があります。ネットを通じて暴力的なイデオロギーが広がり、さらに「アラブの春」以後、武器が移動の自由を獲得してしまった面もあって暴力のグローバル化は深刻です。

その一方で、ネットを通じてローカルに発信されたものを、われわれはいながらにして読むことができる時代です。そこには、自ら旅をするのとは違った発見がある。非日常の土地を旅するのではなく、それぞれの日常を旅の視点で見つめる。日常が非日常化してしまった感のある時代だけに、足元の日常を丁寧に見つめ、生きることも旅の1つのかたちになる気がします。そこに新しい旅行記の可能性があるかもしれません。

長谷部 歴史研究者としては、「過去への旅」もいいと思っています。過去の世界にどっぷり浸かっている間は、全然違うことを考えられるわけです。例えば、最近、17世紀初めのカイロで商品の計量を生業とした人が書いた珍しい歴史書を見つけ、その研究をしているのですが、著者がウラマーの修業を積んだけれども、こういう仕事しかできなかったと書いていたり、市井の人が描く大都市のいろいろな問題がとても興味深い。

一計量人の描写から17世紀前半のカイロの世界が鮮明に見えてくるので、そういうものにどっぷり浸かっていると、本当に旅に似通った高揚感があると思っています。

原田 ポストコロナ、ウィズコロナ時代を考える時、まず考えなければならないのは、ここ20年程のグローバライゼーションと、それに連動したツーリズムが、ある種、短期的利益を基本に据えてきたことではないでしょうか。

例えば新幹線網ができて地方に新幹線が来ても、その地方のものは、結局東京に集まってしまう。いろいろな意味でやはり短期的な利益を優先した形でグローバル化やツーリズムがあったのだと思います。

ポストコロナ社会はもっと多様な、各地域の人たちがそれぞれの生活を営めるような、鉄道で言えば新幹線ではなく、ローカル線で行くようなところを大事にしていくことに、本当のグローバル化への鍵があるのではないでしょうか。コロナは、それに対する1つの警鐘みたいなところがあるという感じがしています。

もう1つ、長谷部先生がおっしゃったように、旅行記の面白みは、空間的なものと同時に時間的な部分です。現代人は今のことには関心が向くのですが、歴史的想像力が弱まっていると言わざるを得ないところがあると思います。そういう時間的な想像力、あるいは歴史的な想像力も、旅行記を読むことで培っていけるのではないかと思います。

(2021年8月25日、オンラインにより収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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