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【三人閑談】
❝旅行記❞を旅する

2021/10/25

  • 田中 真知(たなか まち)

    作家、あひる商会主宰。1982年慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から1997年までエジプトに在住。アフリカ・中東各地を多様な視点から取材・旅行。著書に『たまたまザイール、またコンゴ』『旅立つには最高の日』等。

  • 長谷部 史彦(はせべ ふみひこ)

    慶應義塾大学文学部東洋史学専攻教授。1991年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は中世・近世アラブ社会史。編著書に『地中海世界の旅人:移動と記述の中近世史』(編著)等。

  • 原田 範行(はらだ のりゆき)

    慶應義塾大学文学部英米文学専攻教授。1994年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は近現代英文学、比較文学、出版文化史。著書に『「ガリバー旅行記」とその時代』他。

フィクションの磁場としての旅行記

原田 イギリス文学というのは主立った作品が旅行記の形態を取っていることが多いんですね。いわゆる近代小説が生まれてくる時に『ロビンソン・クルーソー』や、『ガリバー旅行記』とかが出てくる。ですから旅行記というのは、ヨーロッパではフィクションを作る1つの磁場になっているのだなと実感したことがあります。

他方で、私は大学1年のときにイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』を読みました。衝撃的だったのは旅行記なのだけれど、日々の記録が猛烈に詳しいこと。読んでいると、何か旅をしているハルドゥーンとある種の共通感覚が生まれてくるんです。でもハルドゥーンの記述も、いわゆる実録ではなく、メモをもとに再構成していると思うんですね。

ではフィクションではない旅の実録とはどういうものなのだろうと思い、クック船長の航海日誌の翻訳を始めたんです。それは本当に30分単位で、しかも複数の人が書くことで実録性を担保しようとしている。

ところが、やはり30分の経過でも、事実の描写がずれてきたりする。その、実録とフィクションの狭間みたいなところが旅行記は面白いなと感じています。

長谷部 慶應義塾の東洋史にはかつて東西交渉史やイスラーム史がご専門の前嶋信次先生がいらっしゃり、旅行記、あるいはメッカ巡礼記について先駆的な研究をなさった。その前嶋門下の家島彦一(やじまひこいち)先生(東京外国語大学名誉教授)が、それを引き継がれて、特にメッカ巡礼記について深めていかれた。本塾の中東・イスラーム史研究には旅行記研究という特別の伝統があるので、引き継いでいかなければという気持ちがあります。

実録とフィクションというお話で言うと、まさにイブン・バットゥータの『大旅行記』(『諸都市の新奇と旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』、1356年完成)はかなり実録的で、モロッコのマリーン朝の首都フェズで口述筆記され、それをイブン・ジュザイイというアンダルス、グラナダ出身の文人が流麗な文章に直し、様々な補足を行って文学作品として整えたという経緯があります。口述筆記の部分は充分に実録的な性格を持っていますが、部分的にフィクションも織り込まれていると言えます。

原田 非常に興味深いですね。

ジブラルタルの向こうの別世界

田中 私は慶應の学生時代、小説家の辻邦生さんがとても好きで、大学1年の春休みに初めてヨーロッパに行きました。辻さんの書かれているものがギリシアやイタリア、フランスなどヨーロッパを舞台にしているものが多かったので。2度目のヨーロッパ旅行の時、スペインまで行ったんですね。そこから船でジブラルタルを渡ると3時間でモロッコに行けると知り、なんの予備知識もなく行ったのですが、そこでヨーロッパ以上のカルチャーショックを受けました。

着いたその日に、最初に声をかけてきた人に「今日はハッサン国王の誕生日でどこもホテルが空いてないから、うちへ泊めてあげる」みたいなことを言われ、そのあとお金をだましとられたり、そうかと思うと、ものすごく親切にされたり。

次に隣のアルジェリアに入ると、人が信じられないほど親切で、初めて会ったのに泊めてくれたり、ご馳走してくれる人がいた。アルジェリアは社会主義でありながら、人びとの中には敬虔なイスラーム信仰がある。でも、そのどちらもが自分が生きてきた環境の中にはなかった。実際に歩いてみると、本に書いてあることや、日本で学んできたこととは全然違う世界が広がっている、というのが自分にとって衝撃でした。

後になって西洋人の書いたイスラーム世界の旅行記、例えばエジプトだったらネルヴァルとかフローベールのものなどを読んでみると、そこにはいわゆるオリエンタリズム的な幻想が多分に投影されている。

人は、自分の立ち位置に応じて、相手を自在に物語化して解釈するんだなと思い、結局、旅について書くとは自分について書くことでもある。それなら自分はどのように書けるのだろうと思い、書き始めたんですね。

旅が駆動力になる物語

田中 イギリスの文学というのは旅行記から生まれていったとおっしゃいましたが、いつ頃から、どんな経緯でそうなっていったのですか。

原田 これは非常に古くからで、例えば中世のチョーサーの『カンタベリー物語』というのは、カンタベリーの大聖堂に向けてロンドンから旅人たちが集まり、“お伊勢参り”のような宗教的な機縁で行くわけです。話は、旅人たちが旅の途中で話すことが中心で、旅が1つの駆動力になって物語ができてくる。

チョーサーは14世紀でイブン・バットゥータとほぼ同時代です。他にも女性でマージェリー・ケンプという人がいて、彼女の書では宗教的な啓示を求めてエルサレムを旅するところがあります。これも、旅のプロセスが読んでいて面白い。そういった面白さが近代にも引き継がれ、小説ができてくる時の1つの駆動力として旅があるのだと思います。

駆動力というと、激しく動いている感じですが、実は引きこもりというのも、『ロビンソン・クルーソー』の小説などでは重要なテーマです。クルーソーはご存じのように無人島へ行ってしまいますが、あそこで幾度となく引きこもってしまう。引きこもりと、そこからの脱出の繰り返しみたいなものが描かれている。

ですから旅行記というのは、あるところからあるところへ出かけたという単線的なものではなく、行ったところで閉じこもり、そこからまた出発するという複線的なところがあり、それがある意味では人間の日常を描きやすい形だったのではないかという気がしています。

田中 それは、イギリスの文学に特徴的なことなのでしょうか。

原田 ある程度、特徴とは言えると思います。イギリスは海に囲まれていますので、近代になると海軍力で外に出ていく傾向がフランスに比べて強い。また、イギリスはもともと何をもってイギリスと呼ぶかという「イングリッシュネス」というのをよく問われるのですが、人種や文化的背景にもいろいろな要素がある。

そもそも英語という言語自体がロマンス語系とゲルマン語系が混ざり合っていて、イギリスとは何か、イギリス人とは何者かという議論が今日に至るまでずっとある。それゆえに逆に外の世界に対するある種のハードルを下げていったところはあると思います。

田中 それが植民地主義や探検、民族学にもつながっていると。

原田 つながっていると思います。近代初期のイギリスの文化的なキーワードの1つに、「Curiosity(好奇心)」というものがあります。国内がまとまっていれば、あまり国外に好奇心を感じないかもしれませんが、民族的にも言語的にも寄り合い所帯的なところがあり、それが、外へ出ていく力になったのではと。

田中 すごく面白いですね。

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