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【三人閑談】
❝旅行記❞を旅する

2021/10/25

イギリスの敷居の低さ

原田 ヨーロッパ近代では啓蒙という大きい動きがあります。例えば中世からイギリスなどはグランドツアーという習慣があり、貴族の子弟の教育の仕上げみたいな位置付けでしたが、17、8世紀になると、ヨーロッパ大陸に盛んに渡っていき、そこでいろいろな社交界に出入りし、いろいろな人に会って話を聞くというのが1つの流れになってきます。フランス革命前まではそういう状況が続いていくのですね。

田中 一般庶民の動きはどんな感じだったのですか。

原田 庶民、特に商人の動きもかなり活発でした。フランスで宗教的に追われた人が、宗教的に比較的自由なイギリスに逃れてきたり。

例えば時計職人がフランスにはたくさんいましたが、ルイ13世の頃に、追われてイギリスに自由を求めてやってきて、それが近代産業革命の基礎になった。

田中 産業革命が起きたのは、イギリスにいろいろな人材が集まってきたことが関係しているのですか。

原田 そうですね。イギリスは国境のハードルがかなり低く、音楽でも、イギリスの音楽というより、むしろ外から来ている。モーツァルトなんかも小さい頃にやってきて、ずっとイギリスに憧れていたり。

長谷部 イギリスはヨーロッパの中でも、旅行していて、何となくいやすい感じがありますよね。

原田 そうですね。それこそ、今の英語も、誰がどう定めたかはっきりしていない。大体ルネサンスの後半あたりに各国が自分たちの国の言語をしっかりさせるんです。英語もスペリングなんか目茶苦茶だったのでロイヤル・ソサエティーの中に言語部門ができるのですが、それがペストで雲散霧消してしまう。結局、小説の中でそれぞれの作家たちが試して、次第に今の英語の書き言葉になり安定していくんですね。

フランスは、王様が強かったので王様のところで言語が整備される。なので、洗練されているのですが、ハードルが少し高い。イタリアも同じです。英語はその点、誰からもアプローチしやすいところがある。それも、今日いわゆるグローバル・イングリッシュとなった1つの理由だと思います。

田中 よくクイーンズ・イングリッシュとか言われるから権利意識が強いのかと思ったら、実は文化的にはそうではないのですね。

原田 そうですね。クイーンズ・イングリッシュとかキングズ・イングリッシュは、あまりにもイングリッシュネスがはっきりしないので、そういうものを作っていこうということだと思います。

何しろ、今のエリザベス女王の直接の祖先、ジョージ1世はドイツのハノーヴァーから来ていて英語がしゃべれなかった。それ故に民主主義が生まれたという。

イギリスはいろいろなところに言葉を広めるときのテクニックが上手くて、インドなんかでも英語を広めていく時に、例えばベンガル語とか、地域の言葉と英語の辞典をすぐに作ります。

田中 そこはフランスとすごく大きな違いですね。私はカイロにいたときに、アリアンス・フランセーズというフランス語の学院に通いました。そこで使っている「サン・フロンティエール」(「国境のない」の意)という教科書はフランス人の1年の過ごし方で、夏はバカンスに行って飲み過ぎてしまったと書いてある。生徒の多くはムスリムなのに、「今日は飲み過ぎたわ」という例文を皆で言わなければいけない(笑)。

ところが、ブリティッシュ・カウンシルの英語教室のテキストは、労働者の権利というのはこれで、僕たちはそういうことを言う権利があるのだ、みたいな、ものすごく社会性に富んだ内容でした。

エジプト表象への憧れ

原田 他方で、イギリスは、ルネサンス当時からエジプト表象、いわゆる「オリエント」への憧憬がかなり根強くあり、ロマン派などではそれが頂点に達しています。

18世紀あたりだと、すぐにエジプトの話が出てくる。サミュエル・ジョンソンが書いた小説『ラセラス』は、ラセラスというアビシニア、つまりエチオピアの幸福の谷というところで暮らしている第4皇子が幸福の谷を抜け出し、カイロのいろいろなところをめぐるという話です。

この舞台が全部、アビシニアからカイロです。ナイル川もずっとヨーロッパにおけるオリエントの代表的な表象だったのですね。

長谷部 エジプトの場合、1つ大きな転機としてナポレオンのエジプト遠征がありますね。

この遠征の背景に18世紀のフランスにおけるエジプトブームがあったようですが、イギリスでもそういうエジプトブーム的なものがあったのですね。

原田 もうルネサンスからずっとです。オスカー・ワイルドという19世紀末の作家の『幸福の王子』(The Happy Prince)という童話風の作品がありますが、ハッピープリンスは像の上で、いろいろな施しをしようとツバメに頼むのですが、そのツバメはエジプトに帰ろうとしている。私の仲間たちがナイル川で待っているんです、みたいに理想郷としてエジプトが言及されているんです。それがずっと1つのイメージとしてイギリスにはあるんですね。

『大旅行記』の驚異譚的な記述

長谷部 例えば近世、16世紀から18世紀あたりでは、巡礼という人の動きはヨーロッパではどうだったのでしょうか。サンチャゴ巡礼やローマ巡礼は、中世に比べ、だいぶ少なかったのでしょうか。

原田 カンタベリー詣でといったものは、それなりにずっと続くのですが、ヨーロッパはそれぞれ宗教改革が起きて、状況はかなり違うと思います。イギリスの場合、カトリックからいち早く離れ、早い段階でイギリス国教会をつくる。それを世俗化と呼ぶかどうかは別として、カトリックと、プロテスタントの国教会系でかなり分断されてきます。

そして、清教徒革命が起き、国王が国教会の長なのに革命で処刑されてしまう。その段階でいったん、聖なるものに対する意識は大きく変わって、実践的な宗教、あるいは理神論という神の教えを理性で理解していこうとする動きが出てきます。

巡礼の動きは、グランドツアーなどでも19世紀の最初ぐらいまでは一応残るのですが、とは言え、ほとんど商売で動いている。世俗化の勢いは、イスラーム世界に比べるとはるかに早いと思います。

長谷部 イスラーム世界の場合、リフラという巡礼記の伝統が、19世紀の終わりぐらいまで連綿と続くのですね。20世紀にも、リフラのジャンルに入れていいような巡礼記が10点ぐらいあります。

イスラーム世界では12世紀以降、ムスリムの多様な聖者への崇敬が広がっていきます。生きている聖者もたくさんいたのでイブン・バットゥータの旅では、そのような生ける聖者に会うのも大きな目的でした。

彼はナイルデルタについて非常に詳しい情報を残していますが、その地を経めぐった理由の1つは、地中海の近くに住んでいる聖者に会いにいくことでした。そこで、「すごく大きな旅をすることになるぞ」と予言され、それが実際にそうなった、という物語の仕掛けになっています。

原田 バットゥータは、東方はどのあたりまで旅をしたのですか。

長谷部 デリー・スルターン朝の1つのトゥグルク朝に法官として仕え、インドに8年ほどいたのですが、そこで中国の元朝への答礼の使節団に入るのです。しかし、インドの南西のマラバール海岸から船出する時、大嵐が来て船が大破してしまい、答礼の品も全部なくなってしまう。

断定はできないのですが、恐らくコロマンデル海岸までは行っているけれど、ベンガルに行ったことは疑問視されていますし、そこより東はもっと怪しいです。

インドよりも東の話になると、まさに驚異譚の性格も濃厚に帯びてきます。泉州から元の都、大都(北京)まで行ったことになっているんですが、中国訪問は虚構でしょう。このあたりの描写は、生々しい旅をしている感じに乏しく、フィクションでしょう。

東南アジアでは、男性が犬の口をしていたとか、女性が裸のような状態でいたとか、いわゆる女人の国みたいなイメージも出てきたり、本当に驚異譚的になってくる。

原田 何か、だんだん『ガリバー』に近づいてきますね(笑)。

長谷部 急に実録性がなくなってきてしまう。ただ、かなり詳細にインドで得た東方の情報が書き留められているので、伝聞情報を文字化しているということでは一定の史料的価値があります。

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