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【三人閑談】
ナポレオン没後200年

2021/05/17

人民を体現する1つのモデル

堤林 歴史にifは禁物ですが、ナポレオンの右腕だったタレーランが、フリートラントの戦い(1807)で勝った後、ナポレオンに「これでやめましょう」とアドバイスをする。「私は今回の勝利が、陛下が余儀なくも勝ち取られる最後の勝利であると考えたく存じます。今回の勝利が私にとって貴重なのはそのことによるのでございます。けだし、勝利がいかに美しいものでありましても、私は率直に申し上げなければなりませぬが、もし陛下がさらなる戦への道を進まれ、また新たな危険に身をさらされる場合、私の見ますところ勝利は私の申し上げ得る以上のものを失うこととなりましょう」(ジャン・オリユー、宮澤泰訳『タレラン伝(下)』)と言っているのです。

それに対してナポレオンは冗談じゃない、私はもっと野望があると言って征服を続ける。われわれはナポレオンが最終的に負けたことを知っているので、必然的にこうなったと思いがちですが、レジティマシーがいつどのように確立するかは、時間の問題でもあるわけですね。

そもそもフランスではレジティマシーというものが、革命以降危うくなっている。ブルボン家が戻ってくれば正統性があるかというと、全然そうではない。

もう王権神授説ではやっていけないということは、皆分かっている。つまり人民主権しかないということなのだけれど、人民主権とは何なのか、誰が人民を代表するのかというところで、対立が生じて政治が不安定になっていた。そういう意味ではレジティマシーが確固たるものではない中で、ナポレオンは1つのモデルを出したとも言える。

コレージュ・ド・フランスのピエール・ロザンヴァロンが、ナポレオンモデルというのは、ナポレオンという1人の人間、リーダーが人民を体現するモデルである、だから議会をないがしろにする、と言うわけです。ナポレオンはしばしば「民主国家のルイ14世」と揶揄されますが、「朕は国家なり」というような人民主権モデルになっている。

後平 その根拠は、つまりナポレオンが何回か国民投票をやって、これだけ支持されているのだからということですよね。第一統領の時も皇帝の時も、憲法を国民投票にかけるとたいてい半分ぐらい棄権なのだけど、投票した人の中では圧倒的に勝っている。棄権した人の半分をナポレオン側に上乗せするとか、いろいろなインチキをやっていますが、そうせざるを得なかったのでしょうね。

堤林 そうですね。レジティマシーを担保するには人民投票しかないのですが、いったん権力を獲得してからそれを固めるため、手を替え品を替え制度をつくったり、オピニオン、プロパガンダによって意識を操作し、芸術も総動員している。

フランス革命以降、フランス政治は不安定になってどんどん分裂していくわけです。総裁政府は常に不安定で、それでは駄目だと、総裁の1人、シィエスがナポレオンと組んでブリュメール18日のクーデター(1799)を起こす。そして、権力を掌握したナポレオンは、共和国8年憲法の布告と合わせて、これで革命は終わったと宣言します。実際に安定するのは1802年頃ですが。

こう見ていくと、これまでフランス革命以降ずっと不安定だった政治が、ナポレオンが支配者になってますます中央集権化し、数年経つと安定する。客観的にそうした事実はあると思うのです。

そこは上手いなと思います。単に戦争だけではなく、やはりプロパガンダというか、すごいオピニオン操作をしているなと。ナチは後にそこから学ぶわけですね。ナポレオンファッション、帝政ファッションもそれなりに人心を捉える1つの手段となっているのかなと思います。

ナポレオンは表立ってはフランス革命の理念を賞揚し、自由とか平等と言っているわけですが、裏で彼はイタリア遠征の時にすでにこのようなことを言っています。「3千万人の共和国だと! われわれの習俗と悪徳を伴った! そんなものを実現する可能性がどこにあるんだ? それはフランス人が心酔した妄想だったが、他の妄想と共に消え去るだろう。彼らに必要なのは栄光、虚栄心の充足だ。自由なんぞ気にかけているもんか」(Jean Baelen, Benjamin Constant et Napoléon)。

後平 彼らは自由とか、そんなものは全く求めてなんかいないのだ、赤ちゃんのガラガラでも持たせておけ、とすごいことを言っていますよね。

スタール夫人など自由派の人から見れば、ナポレオンはいろいろな手段で人々から自由を奪って独裁権力をつくっていると思える。ナポレオンは、スタール夫人をパリから40里追放にするのです。「パリに入ってはいけない」というのがその当時何を意味したか、今のわれわれにはほとんど分からないぐらいですが、とにかくパリのサロンがなければ、そういうインテリは生きた心地がしないわけです。

スタール夫人は仕方なくパリから出るのだけれど、ナポレオンが戦場に行っている時にこっそり帰って来る。すると警察大臣のフーシェなどは、まあいいじゃないかと黙認しているのだけど、その後それが全部ナポレオンに伝わっていたり。その後、またナポレオンの怒りを買って、スイスのコペに逃れざるを得なくなる。その過程を書いた『追放10年』というとてもおもしろい本があります。

卓越した能力

菊澤 ナポレオンは軍事独裁に近いのですが、その印象がほとんどないところが賢いと思います。今のミャンマーなどの軍事独裁とやっていることはほとんど変わらないのですが、彼は実に上手に国民投票を行ったり、法律をつくったりするイメージがあります。

彼は理系的で数学が得意。もちろん軍事はとても上手なのですが、それだけではなく、彼は士官学校でいじめられていて、図書館にずっと籠ってたくさんの歴史書を読み、歴史に相当詳しかったと思います。その点で彼は文系的でもあり、ただ者ではないという感じはしますよね。

後平 ブリエンヌ兵学校の時のナポレオンは、ほとんど他の仲間と交わらないで1人で本を読んだり考え事をしていたりで、成績も芳しくないですよね。58人中42番というのだから。

菊澤 これは一見悪そうですが、彼は、普通は4年で卒業するところを11カ月で卒業しているのです。だから抜群にできたのです。

後平 すごいじゃないですか。

菊澤 やはり天才ですよね。ただ彼はもともとイタリア領のコルシカにいたので、フランス語があまり上手くないということで相当いじめられていたようです。

本当は、海軍に行きたかったようですが、当時のフランスの士官学校は、本当の貴族ではないと海軍には行けなかったので、陸軍の砲兵になったようです。イギリスに彼が負けているのは大体海戦なので、そのへんも興味深いなと。

もう1つおもしろいのは、彼が負ける時は、徹底的には負けていない点。例えば、エジプト遠征も海戦で負けても陸戦では勝っているので、負けた感じでフランスに戻らないで、逆に凱旋将軍扱いされる。それからトラファルガー海戦では負けていますが、同時期のアウステルリッツの三帝会戦では大勝利を挙げているので帳消しになっている。

でも、最後はさすがに他の国も彼の戦法を真似してくるのです。これはハンニバルもそうですが、経営学と一緒で、成功している人は真似をされるので、最後は競争優位がつくれなくなってしまいます。

ナポレオン法典の発想

後平 ナポレオンには政治的なこととは別に行政面で残っている功績としてナポレオン法典がありますね。こういう発想は自分で考えているとすれば、すごい人だなと。

堤林 かなり、その思想にコミットしたと言われていますね。ナポレオン法典をつくるという発想がどこから出てくるのかと言えば、1つはルソーと、当時のリパブリカニズム(republicanism、共和主義)の思想的潮流と関係していると思います。もちろんナポレオンはルソーを読んでいますし、そこで立法者という存在があり、国をつくるということは、法律をつくる、憲法をつくることだという考えが出てくるわけです。

ナポレオンは実際に憲法によって皇帝になっている。それを人民投票で裏打ちしているわけです。こういう1つのフランス的な伝統があり、ルソー=ジャコバン型国家像という言葉が時折使われますが、人民主権は立法者、主権者というものが重視され、単一なものとして理解されるのです。これは非常にフランス的で、アングロサクソンモデルとだいぶ違う。

イギリスでは権力分立が自明視される。しかし、ナポレオンの場合、彼が人民を体現するからそれに抵抗するということはあり得ないだろうというロジックになるわけです。シィエスの有名な言葉に「権威は上から、信任は下から」というものがありますが、彼が人民を体現しているのだから、それを制約するロジックはどこからも出てこないと。これがルソー主義のロジックで、一般意志の論理だと抵抗権は認められないのです。

コンスタンがナポレオンがクーデターを起こした後に護民院の議員になりますが、1802年にナポレオンによって追放される。その時、ナポレオンはこの形而上学者たちは何を考えているのだ。全然分かっていない。フランスにおいては、私が人民であって、反対勢力の存在する余地はないのだと言い切るわけです。

それに対して、イギリスというのは王が人民の敵となり、議会が人民を代表することもありうる。それゆえ王権を制約するとなる。

後平 なるほど。ナポレオンの悪口を言う人などは、彼はとにかく自分を万能の人だと思わせたいんだと言いますね。例えばナポレオンが戦場で戦っている時に、フランスの小さな町の代表団から手紙を受け取る。町の教会の石が崩れたけれども直していいだろうかという裁可をナポレオンに求めているのです。

このようなことまでやっているのだとびっくりしたけれど、そのようなことまでやらなければいけなかったから、ナポレオンの睡眠時間はすごく少なかったのか。だって、人民は自分だということであれば、人民の考えることを皆やらなければいけなくなってしまう(笑)。

堤林 コントロールフリークではあったのでしょうね。

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