【三人閑談】
ナポレオン没後200年
2021/05/17
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菊澤 研宗(きくざわ けんしゅう)
慶應義塾大学商学部教授。1981年慶應義塾大学商学部卒業。86年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。専門は経営学、組織の経済学等。著書に『戦略の不条理』等。
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堤林 剣 (つつみばやし けん)
慶應義塾大学法学部政治学科教授。1989年慶應義塾大学経済学部卒業。ケンブリッジ大学大学院政治思想専攻修了(Ph.D)。専門は近代政治思想史。著書に『「オピニオン」の政治思想史』(堤林恵との共著)等。
勝ち続けなければならない宿命
堤林 本年はナポレオンがセント・ヘレナ島で1821年に没してから200年ですが、フランスではある程度盛り上がっていて、いろいろなイベントが企画されているようです。特にマクロン大統領が命日に当たる5月5日に記念スピーチを行う予定で論争を呼んでいる。フランスでは、往々にしてこのようにナポレオンが政治的に利用されるのです。
菊澤 僕の場合、専門が経営学ですのでナポレオンについての関心はあくまでも戦略論です。経営戦略には軍事戦略などが意外と参考になるんですが、その中でもすごく目立つ存在としてナポレオンがいる。ナポレオンの上手な戦略から学べるものは結構あります。
ナポレオンにはいろいろな面がありますが、僕の中ではやはり戦場の英雄という感じです。戦いが華麗で、彼の究極的な正統性(レジティマシー)は戦いで勝つことなのだろうと思うのです。宿命として勝ち続けなければいけなかったのかなと。そこから見ていくと、おもしろいところが見えてくる感じがします。
後平 確かにそうでしょうね。
菊澤 彼の生まれは必ずしもよくないわけですよね。これが王家の一族であれば、自然と正統性があるのに、彼にはそれがないので、戦争に勝ち続け、それを人気につなげるしかなかった。ある意味で、彼は人民の人気を自分の正統性の源泉としている。
僕が思うに、最初は彼は政治家などに取り入る手段として戦っていたと思うのですが、頂点に立った時、手段と目的が逆転したような感じがします。つまり、戦争をすることが目的になってその手段を探していくように転倒してきた感じを受けるのです。これが没落の始まりだったのかなという印象があります。
後平 今のお話は、ちょうどコンスタンが1813年に書いた有名な『征服の精神と簒奪』が当てはまってくるように思いますね。同時代のナポレオン批判としては、もう一人、シャトーブリアンが、ブルボン朝を擁護するために『ボナパルトとブルボン』という痛烈なナポレオン弾劾のものを書いている。
文学畑から言うと、この2つがナポレオン批判の代表ですが、コンスタンのほうがはるかに説得力がある。今、菊澤さんがおっしゃったこともまさにドンピシャリで、つまり「簒奪」ということですね、勝ち続けなければいけないのはなぜかというと、例えばブルボン朝の王様ならば、その前の祖先がたくさんいるので仮に1、2回負けたからといって国民は離れない。だけど、ナポレオンにはそれがない。
正統性をどう確立するか
堤林 そうですね。コンスタンは『征服の精神と簒奪』の中で「ナポレオンはアナクロニズムだ。文明に反する。ヨーロッパは文明化しているのに、それに逆行しているので長続きしない」と言う。
面白いことに彼が皇帝を退位した後、彼の息子を王や後継者にしようと考えた人はいないのです。結果的にルイ18世になってしまう。ナポレオンが皇帝になった時、一応、人民投票で世襲制を確立しているのにです。そういう意味でレジティマシーがないとは言えなくもないのです。
私はコンスタン研究者ですが、果たしてコンスタンは正しかったのかと問うた場合、8割ぐらいは正しいと思う。でも完全にナポレオンがアナクロニズムかというと、必ずしもそうとは言えないと思います。
ナポレオン自身、一生懸命、戦勝以外のレジティマシーを確立しようとしている。ナポレオン法典(1804)や戴冠式(1804)がそうです。パリのノートルダム大聖堂で執り行い、教皇まで呼んで、身にまとったシンボリズムも象徴的です。そうやって戦勝以外のレジティマシーを確立しようと努力したのですが、それが必ずしも上手くいかなかったということではないか。
シャトーブリアンはナポレオンが死んだ後に、“Vivant, il a manqué le monde ; mort, il le possède.”「生きているうちに、つかみ損ねた世界を死して手にした」と言っている。これは、ナポレオン伝説というものが死後にできて、それによってシンボルとしてイデオロギーとしてナポレオンが復活したということです。
だからレジティマシーの定義によると思うのですが、ある意味ではボナパルティズムという考えがその後、フランスの政治に大きな影響を及ぼす。ナポレオン法典なども影響が大きいわけです。
後平 シャトーブリアンは最後までブルボン王朝を擁護しますね。彼の言っているレジティミテ(légitimité、正統性)というのは、要するに歴史的な正統性です。ナポレオンが求めている正統性には歴史的な背景は全然なく、民衆の支持ですよね。そうやって権力の座を上り詰めるのだけれど、上り詰めた後、今度はそれをどのように維持するのかが彼の最大の問題になる。そうした時に例えば戴冠式などは、おそらく一般の人々からはものすごく受けたのでしょう。
だけど、若い頃のイタリア軍総司令官ボナパルトには絶賛して心服していたスタンダールなどはその頃からちょっとおかしいのではないか、と思い始める。インテリで自由主義的な考え方をする人からすると、あのような戴冠式は噴飯物なわけです。そういう一筋縄ではいかないような世論もあったのでしょう。
台頭する若き将軍
後平 ナポレオンが頭角を現すきっかけになったのがトゥーロン攻囲戦(1793)ですね。革命後、あのへんは王党派が多くて中央政府の支配が及ばない。トゥーロンをなんとか攻略しなければいけないと軍を派遣するのだけど、将軍たちが上手くやれない。そこに若いナポレオンが出て行って自ら考えた攻略案を上に飲ませたら、たちどころに攻略に成功して注目を浴びたわけです。
菊澤 トゥーロンの戦いから、ナポレオンはおそらく上層部は駄目だと見ましたね。ずっとイライラしています。彼自身の作戦は、彼がまだ下っ端だったので、すぐには実行できなかった。しかし、上層部がゴタゴタして、結局、彼の提案した作戦通りに実行していきますよね。そんなところから、背後にいる政府が駄目だと思ったのではないか。
後平 そうですね。僕がナポレオンは大変だったろうと思うのは、急進的なジャコバン派が、ロベスピエールが失脚した後も何回も復活するわけです。総裁政府〔1795~99〕ができても、議会で選挙をするたびに王党派が勝ったり、ジャコバン派が勝ったりして、中央で行政権力を握っている5人のdirecteur(総裁)が一枚岩ではない。
そうするとどちらに振れるか分からない。王党派が勝ちそうだとなると、ポール・バラスなどがナポレオンの力を借りて、パリで銃撃してやっつけてしまう(ヴァンデミエール事件)。その中でナポレオンがいつ頃からか自分も権力を握れるのだと思ったきっかけが、たぶんあったのだろうと思うのです。
その後ナポレオンはイタリア方面軍総司令官という将軍としてイタリアに行きますが、当時、人が足りないから、少しでも頭角を現した若い軍人を将軍にする。でも、彼らがどういう政治的な意見なのかを監視するため、パリの権力者たちは子飼の議員を各地に派遣するわけです。
そして、この将軍は負けたとか、この将軍はまずいとか、温和すぎるとパリに通告すると、たちまち召喚されて、裁判があって処刑されてしまうんですね。そういう中にナポレオンは置かれていたんです。総司令官という名称にしても、ある一定期間だけ、要するに日付限定のミッションなわけです。
菊澤 体制維持で言うと、徳川家康は上手に体制を作っていったなと思うんですね。彼は武士という軍人でしたが見事に政治家になる。その点ナポレオンは、やはり始終戦争で忙しかったのだという気がします。家康は戦争を収めた後、内部統治の制度を見事につくっていく。そこにナポレオンはいけなかった。
なぜか。よく言われているように、彼が一国の王ではなく、複数の国を支配する皇帝になってしまったために、自分の領地がはっきりしない。それゆえ、制度面の体制づくりをする時間が彼にはなかったと。
ナポレオンは、まさにスタッフ部門、つまり参謀本部のようなものを初めて軍隊内に設置したのですが、そのスタッフはあくまでも戦争用の軍人で、それを政治までは持ってきていない、それを国内政治に応用できれば、またちょっと違っていたかもしれません。
後平 例えばナポレオンが、伝統的な旧貴族と自分の腹心、要するに若い軍人たちによる新しい帝政の貴族を融合させようと思っていろいろなことをやりますね。
これはスタール夫人などに言わせると、体制を維持するための設計などではなく、ナポレオンは人間が悪いから、ちゃんとしたものも、いい加減なものもゴチャゴチャにして、相手が嫌な目にあって自尊心を傷付けられていることを喜んでいると、すごい悪口を言うわけです(笑)。
菊澤 僕が思うに、例えば彼は愛国心を持つ国民を徴兵し、上手に使った。もう1つ、法律で私有財産を認めた点も大きい。なぜか。敗北し敵国に支配されると土地を取られてしまうので、兵士は必死に戦う。このように、上手に人間の心理的な側面をマネジメントしていました。
それまでは傭兵と犯罪人が兵士として戦場に送られていた。そういう兵士はすぐ逃げてバラバラになるので1つに固めておかなければならない。すると相手は大砲を撃ちやすくなる。一方、国民軍は分隊化行動しても、またもとの1つの軍隊に戻ってくるので、多様な戦術が可能になる。ナポレオンは、軍隊の性格をよく分かっていたと思います。
傭兵は、よい働きをするとお金がもらえた。しかし、ナポレオンはお金の代わりに勲章を渡すという制度をつくり、今までにないマネジメントを展開しました。軍事の側面でいうと、革命的だったと思います。
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後平 隆(ごひら たかし)
慶應義塾大学名誉教授。1974年慶應義塾大学文学部卒業。パリ第8大学大学院博士課程修了(Ph.D)。1997年~2017年慶應義塾大学経済学部教授。専門はフランス19世紀文学。