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【三人閑談】
武士(サムライ)とは?

2020/02/25

「殺人刀」「活人剣」

ベネット 近世の侍というのは基本的に平時は仕事をそんなにしなくてもいい社会のエリート層です。だから、江戸時代の侍は「俺たちは何のためにここにいるのか」ということを結構早い時期、1630年代くらいから考えるようになっていた。どうやって自分の存在を正当化できるかということです。

例えば柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の『兵法家伝書』という本があります。柳生宗矩というのは剣術の名人で、将軍の指南でもあった。『兵法家伝書』は柳生新陰流の技の教科書であると同時に、その剣術の考え方をどのように統治で生かすかという書です。

そこに、「殺人刀(せつにんとう)、活人剣(かつにんけん)」という有名な言葉があるんです。「殺人刀」というのは殺人の刀ということです。「活人剣」の剣は「つるぎ」です。社会に悪い奴が出てくると、万人の生活が乱れてしまうけれど、そういう奴が出てきたら、侍がパッとその悪人を殺す。そのことによって、「殺人刀」が「活人剣」になるんです。

要はピース・キーパー、警察です。ピース・キープのためにはやはり常に戦う覚悟をしないといけない。戦争がないのに、それを維持することは非常に難しいわけです。だから一生懸命、武芸もやっていた。

眞田 「殺人刀」「活人剣」ですか。

ベネット 「殺人刀」の「刀(とう)」は刀ですから片刃です。一方、「活人剣」と「剣」と呼ぶのは両刃なんですよね、これは相手に対して刃を向けると同時に、自分にも刃を向けているわけです。それは、相手の悪を切ると同時に、自分の中にも悪があるということを覚悟しないといけないということなんです。だから剣を使うことができる侍の責任がすごくある。

これは平和を求めていたとも言える。平和だからこそ侍が必要で、侍としての責任がある。そこが大きなポイントだったと思うんです。

大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』という本が『葉隠』と同じ時代に書かれていますが、その中で「侍は常に死を覚悟しないといけない」と言う。侍というのは戦うことが文化のベースにあって手柄を挙げて武勇で名が知られると、プライドが非常に高いので、酒を飲んでけんかになったら切り合いになる。ちょっとしたことで「この野郎」と、すぐ暴力になってしまう。『葉隠』などを読みますと、そのような話が沢山出てきます。

いつそういうことになってもおかしくないから、「死を必ず覚悟しろ」と言うんですね。死ぬことを覚悟することで、油断せずに危ない場面を避けることができ、それによってより長く仕事ができるということです。だから、死の覚悟が武士道の中心概念ではあるんだけど、文字どおりの〝犬死〟の無駄な死とは違う。

武士の存在意義

桃崎 そうですね。どうしても平和のためには、それを荒らすものは力で押さえつけるしかない時があって、これはまさに武士の存在意義そのものです。いわば平和のための暴力です。必要悪としての暴力ということが、たぶん武士を長生きさせたんだろうという気はします。

もちろん武士も人間ですから、本心は死にたくないはずだけど、鎌倉時代とか、室町時代の武士を見ていると、「あ、これは死ぬ時だな」というふうにスイッチが入って、死ぬための戦い方に切り替わる時が、やはりあるわけですね。

昔から家の継続性ということは必ずあって、戦で卑怯な振る舞いをすると、孫や子どもたちがつまはじきにされて、生きていけなくなる。だから「孫のために、俺は今から行って死んでくる」という遺書が鎌倉時代や南北朝時代にはあります。

活かすための死。誰かが死なないといけない時がある、という仕組みがある。そうやって活躍して討ち死にすると、『平家物語』とか『太平記』に「何のなにがしは、この戦のときにこんなに頑張った」と書いてもらえる。それを皆が読み、社会から存在価値が認められる。いわば一種の履歴書になるんです。

卑怯に振る舞った人間というのは、子孫もその後の社会で生きていけない。中世は平時が20年と続きませんから、死というものが、社会の持続性のコストだと思っていた部分もあったのかなと思うのです。

ベネット その通りでしょう。だから死ぬべき瞬間はいつなのかということが一番のポイントだった。いずれみんな、人間は死ぬわけだから、死ぬべき時、死ぬべきでない時を判断するのが武士の一番難しい選択肢だったんですね。間違えると犬死と言うわけですよね。

桃崎 むやみに死ねばいいというわけではない。1つしかない命の使いどころですよね。

統治するプレッシャー

眞田 江戸時代は、眞田みたいな大名、統治する側からすると、必ずしも平和な時代ではなくて、いつおとりつぶしになるか分からなかったわけです。現に原八郎五郎の乱、恩田木工(もく)(民親(たみちか))の日暮硯の時代には、眞田も場合によっては家がつぶされる可能性があった。

そういう時代になると、上の者からすると、きちんとした生き方をして藩をきちんと治めないといけない、というプレッシャーはものすごくあったと思うんです。

現に眞田も沼田藩をつぶされている。これは当時の藩主がある意味で見栄を張って、農民から過大な徴税をしてしまったことが基なんです。だから戦乱の時代のように、武力がある種の評価基準になっていた時代のほうが統治するのはクリアでやりやすいんです。平和な時代になると、武力が強いほうが偉いのではなく、生き方をきちんとしないと、下の者も治められないという背景もあったのかなという気はします。

だから、死ぬために武士道があるというよりは、きちんとした生き方をして、周りからきちんとした評価を得ないといけなかったと思うんですね。

いまだに沼田では眞田って評判が悪いんです。1700年代の半ばぐらいですから、かれこれ300年ぐらい前の話ですが、今も「上毛かるた」の札に一枚「天下の義人茂左衛門」というものがあり、身を挺して幕府に訴えたことが残っている。訴えられるのが眞田家です。そういう意味では、家としては恥を残してしまったということだろうと思うんです。

なんとか長野の本家のほうは生き残りました。でも危なかったと思います。統治するプレッシャーというのはすさまじいものがあったろうと思うのですね。

ベネット そうでしょうね。武士といっても、藩の中でその身分によってまた責任が違うわけですよね。つまり理想とされる生き方というのはそのランクによって相違がでます。

藩主の下の家老たちはいろいろとアドバイスをする顧問役ですよね。

眞田 アドバイスをするほうが「押込(おしこめ)」といって、場合によっては藩主を取り替えるんですよ。

「この藩主は駄目だ」と蟄居させて、次の藩主を持ってくることがある。「藩を残す、家を残す」ということが第一目標で、必ずしも藩主、大名だから絶対ではない。家老は家老で、場合によっては自分が腹を切らなきゃいけないという覚悟で、それをやりますよね。

ベネット そうですね。諫死(かんし)というんですか。

桃崎 諫めて死ぬんですね。武家社会は、建前上は完全なピラミッドになっていますが、実はナンバー・ツーには主君を諌める責任がある。諫めて死ぬということが1つの責務でもあって、死ねばいいというものでもないし、押込をすればいいというものでもない。絶妙なバランス感覚が常に追求されている。

諫死は、南北朝時代にすでに行われています。関東に足利の弟の家系の鎌倉公方の足利氏がいるんですが、必ず毎世代、兄貴の家系の京都に反抗するんですね。

ナンバー・ツーが関東管領の上杉ですが、この上杉はトップの暴走を制御するためにいるわけです。制御できなくなった場合、「あれほど言ったのに、もう責任を取りきれない。私が腹をかっさばいて死にますからやめて」と言って止めたことが、足利義満の頃に一度あります。私が知る限り室町時代で唯一の諫死です。

主君押込というのは武士の伝統そのものです。主君が駄目だと共同体が沈んでしまうので、共同体の生き残りのためには駄目な主君には引っ込んでもらうしかない。

鎌倉幕府は源氏が頼家、実朝で途絶えた後は、執権北条氏が京都から藤原氏、摂関家の将軍を呼ぶとか、あるいは皇族をくださいとか全部、鎌倉幕府の主君を決めている。日本の歴史というのは、摂関政治もそうですが、一番上手く権力をつかめるのはトップではなくて、ナンバー・ツーというところがあるんです。

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