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【三人閑談】
バリ島に魅せられて

2018/07/25

知られざるバリ――虐殺の記憶

倉沢 バリは1930年代に一時期欧米の影響で観光産業が芽生えるのですが、戦争で日本軍の占領期にはすっかりつぶれてしまう。

それで、日本の占領が終戦で終わると、そのあといわゆる独立戦争が1949年まであります。これがバリでは激烈でした。バリ人がオランダ側につくほうと独立側につくほうとに2つに分かれてしまって、むしろオランダ側につくほうが数的には多かった。王家が昔からヨーロッパといろいろな意味で近かったわけですよね。だから、オランダの傀儡国家がバリにつくられるんです。

そういう苦い歴史があったものですから、インドネシアが1つの国として独立が認められたときもしこりが残っているんです。それがようやくなくなりかけた頃に9・30事件が起きるんですね。

小野 バリでも虐殺があったのですか。

倉沢 そうなんです。ホームステイのプログラムでいつも泊めていただいているところで、よもやま話をしていたときのことです。そこは海岸沿いの家なんですが、9・30事件に話が及び、「ああ、あの先の海辺のあそこにもいっぱい埋まっているよ」と言うんですよね。埋まっているというのは、虐殺された遺体です。

小野 1965年ですよね。

倉沢 そうです。スカルノが倒れたときです。

小野 共産党だと言われて。

倉沢 もう大虐殺が全国で起きた。でも、平和なバリではそんなものはなかったんじゃないかと皆思っていたのにあったんですね。

小野 僕はまだお付き合いしているバリ人に聞いたことがないです。その話題を避けていらっしゃるのかもしれない。

倉沢 普通、バリは安全だったと言われていたんですが、「いや、この村だって虐殺はいっぱいあったよ」とケロッとして言う。

これは大変だ、そんなすごいことが私たちが毎年泊めていただいているその村でもあったんだと。それで、何々さんのおじいちゃんは殺したほうの側だよ、何々さんのおじいちゃんは殺されたんだよという話を聞くようになった。小さな村ですから、その両者は今は仲良く暮らしているのですよ。

せっかく毎年こうやって学生を連れてきているので、自分でこのことを調査してみようと思い、今本を書き上げたところです。

新井 私は、ジャワでは聞いたことがたくさんあります。留学していたとき、大学の先生の田舎がバニュワンギにあって、その村では共産主義者と疑われないために仏教徒になったという話も聞きました。でもバリでは私も聞いたことがないですね。

倉沢 そうですか。そういう生臭い話を追いかけていまして、バリ島というときれいな楽園イメージばかりで、私もそういうイメージを持っていたのですが、そういうダークな部分もあるということです。

小野 知られざるバリですね。50年前ですね。

そのあとぐらいにヒッピーがやってくるという感じですか。

倉沢 そうです。60年代の末です。その頃まではバリ島に空港がなかったんです。今のングラ・ライ空港ができたのが68年でしたかね。戦前、小さな空港はあったのですが、日本が軍用飛行場にして、使い物にならないような状態にしてしまって、それっきりだったのです。

日本の戦争賠償のお金を何に使うかというときに、スカルノがこの国はやはりドルを稼ぐには石油とともに観光だと言って、バリ島にホテルをつくったんですね。それがバリ・ビーチ・ホテルで、バリで最初の国際級のホテルだと言われています。

これが建設中に9・30事件が起きたのです。そして、事件が落ち着いて、ホテルもできて、空港ができて、ヒッピーが来る。あとは昔いたオランダの人たちが、落ち着いてきたのでノスタルジアの旅をする。そういう感じで、日本人は遅れて出かけていったという感じです。

観光地としての発展

新井 日本人がすごく行くようになったのは90年代ですね。

倉沢 数の上ではそうでしょうね。

新井 80年代から行き始めてはいたけれども、私の感覚だと90年代はどの雑誌でもバリ特集をするほどバリブームになっていました。それが97年のアジア金融危機でガクンと落ちていく。

だから、98年にバリに行ったときは、まさに金融危機の影響で、クタビーチは人1人いないという状況でした。そのあと少し復活しますが、今度は2002年にテロが起こって。翌年雑誌の取材で行くと、ウブドのモンキー・フォレスト通りには1人も観光客がいませんでした。

倉沢 そうなんですよね。バリはそういうことで観光産業がぺしゃんとなってしまう。いつも、ちょっとしたことで大打撃を受けるんですね。

小野 そうなると、ひたすら我慢というところがあるんじゃないですか。

倉沢 忘れてくれるのを待つという感じですよね。そうすると、必ず復活してきますから。

小野 昨年11月からのアグン山の噴火のときもそうですよね。

倉沢 そう、去年のクリスマスとお正月も観光客は全然来なかったんですよ。

小野 そういう意味では、バリ島のホテルも結構大変だと思いますよ。

新井 ただ、日本人はともかく、今全体からするとものすごい観光客の数です。とくに中国人が増えている。

倉沢 ええ、中国語の看板が至るところにあります。

新井 去年行ったときもクタビーチに、「こんなに人がいるの?」というほど人がいました。ウブドも観光客だらけで。田んぼをつぶしてホテルをどんどんつくっているそうです。

実は今、バリ島を訪問する外国人は年間で570万人ぐらいなんです。2002年のテロの翌年は100万人を切っていますし、テロの直前も130万人ぐらいですからね。それに比べたら今は4〜5倍。しかし、日本人は逆に2008年がピークで今ちょっと下がっているんですね。

小野 日本航空も直行便がないですよね。それから、ガルーダ・インドネシア航空も1日2便だったのが1便になってしまいましたものね。

新井 ええ。でも、エアアジアが去年、成田から直行便が飛ぶようになりましたので、また日本人が増えるのではないでしょうか。

バロンダンスの精神性

倉沢 先ほど小野さんが、しかるべき形で最後はきちんと火葬していかないと、生まれ変わり・再生ができないとおっしゃった。

それがまさしく大きな問題で、9・30事件のときに殺された何万人という人は火葬するどころか、そのへんに大きい穴を掘ってボーンと埋めてあるわけですよ。それで、そのあともスハルト政権が怖くて、誰もそれを掘り出してちゃんと供養しようとはしていないんですよ。

このままではとにかくいけないということで、今はさすがに掘り出して火葬し直すことが許可されて、徐々にそうしています。

小野 それまでは土に預けてあったんだということにするんですね。

倉沢 ええ。まだ魂がそのへんをさまよっていると考えて、いろいろな変な事件が起きると皆そのせいにします。例えば交通事故が続けて起きたら悪霊のせいだと、本当に信じているんですね。

だから、こういう生臭い調査をしている中で、皆さんの心の中にあるバリの伝統がすごく強く感じられました。

小野 悪霊を信じているというのは本当ですね。

倉沢 ええ、本当に信じています。

新井 バリの舞踊で、聖獣バロンと魔女ランダとが終わりなき闘いを演じる「バロンダンス」がありますが、私はこのバロンダンスの精神性こそが一番バリらしいなと思うのです。つまり、聖獣バロンと魔女ランダは、聖と邪、善と悪、光と闇という両極を象徴している。しかし、善と悪は同時に存在するものだという考え方ですね。

小野 そうですね。どちらが勝つとか負けるというのではなくて。

新井 永遠に結果が出ない。要は、善というのは悪があるから善であって、悪がなければ善も存在しないということなんですよ。善と悪、生と死、光と闇というものは互いがあるから存在し合える。そこに調和を見るのがバリの精神性というか、バリの哲学ではないかと思うのです。

今も世界で戦争があったり、9・30事件のような悲劇があったりと、この世には光と闇があるのだけど。その融和、平和へのヒントとして、バロンダンスの根底にある精神性、つねに調和をとろうとする考え方が役に立つのではと、私は感じているんです。どんな物事でも、善と悪ではっきりどちらがいいとか悪いとかは決めつけられないものですからね。

小野 僕もそう思いますよ。いいことばかりではないし、悪いことばかりでもない、ということではないですかね。

新井 結局バランスをとることの大切さなんですね。そこに優しさや、融和の精神が生まれてくる。それがバリの精神性なんだと思います。

倉沢 おっしゃるとおり、バランスとハーモニーですね。虐殺のときにさえ、共産主義者を殺す理由として、村落社会とバリの完結したコミュニティのバランスを壊した、という言い方を1つの口実にしているわけです。いかにそれが大事かということが分かります。

ちょうどその前に、アグン山の爆発が1963年にあった。まだその余韻が残るときに9・30が起きたのは神様の怒りなんだとなっていく。やはりすべてが神様なんです。

変わっていくバリ

新井 バリは1908年に全土がオランダの統治下になって、バリの文化も崩壊してしまうのではないかというところに西洋の文化がプラスされて、新たなるバリ文化が花開いていくわけですよね。つまり、バリというのは、崩壊と再生を繰り返してつねに進化していく。2002年にテロが発生したときも、バリは大打撃を受けましたが、再生してまた新たなバリを創造しているんですね。

観光の楽しみ方も、例えば、以前は高台から見るだけだったテガラランの棚田が、最近は中に入って散策できるようになるなど、いろいろ変わってきています。ですから日本人も、新しく進化しているバリをぜひ見に行ってほしいなと思います。

倉沢 そうですね。1回行ったからいいやではなくて、ぜひまた行ってください。

新井 もし2回、3回と行っている方ならば、今度は地元のオダランや、ガルンガンやクニンガンといったお祭りにも参加していくと、もっとバリ芸能の深いところに触れられて、癒されてくると思うのです。

小野 どんな小さな村のお寺でも、オダランがありますからね。ちょっと足を延ばせば、必ず1週間のうち1回ぐらいどこかでやっているから見せてもらうといいと思います。

それと、ニュピという1年に1回、外に出てはいけない日があって、あれは面白いですよね。

倉沢 バリのお正月と呼んでいますけれど、今年、ニュピに学生を連れていったんですよ。

小野 あれは本当は食べるのもいけないんですよね? 音を出してもいけない。要するに瞑想の日ですよ。

倉沢 活動してはいけないんです。じっとしていないといけない。ですから、空港が24時間閉鎖。道路に出ても車も何も走っていません。全島一斉にね。

小野 食事も外国人はホテルの中で食べるのは構わないけれど、ホテルも本当は電気をつけてはいけない。

倉沢 外国人も外に出てはいけない。ヒンドゥー教徒でなくても駄目なんです。

小野 私も経験しましたが面白かったです。まあ、僕は1日中ボーッとしていましたけど。

倉沢 私はあえてその時期に学生をホームステイに連れて行って、ホームステイ先で24時間体験させているんです。今年からネットも駄目です。Wi‐Fiをバリ島全体で遮断してしまって。

新井 忙しい日本での日々を思えば、そういう日が1日ぐらいあったほうがいいかもしれませんね。

※所属・職名等は当時のものです。

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