【三人閑談】
バリ島に魅せられて
2018/07/25
「神様がご覧になっている」
小野 バリでは道などに供物を毎日置きますよね。でも、そのあとそれが車に轢かれてもまったく気にしない。供物を置いたとたんに神様が中身は持っていらっしゃるから、踏んでも何でも結構なのだと。われわれが考えるとちょっと変ですよね。
でも、毎日毎日やっている。大変ですよ。これは儀礼で、それを尽くさないと、きっと生まれ変われないと考えている。生活規範、暮らし方の規範なんでしょうね。
倉沢 儀礼のときはなにかにつけて海岸へ行って、宝物を洗ったり。それから、最後の火葬も多くは海辺ですよね。
小野 1番最後に骨は流してしまうんですね。
新井 舞踊も、そもそも神様に捧げるためのヒンドゥー教の神事でしたので、やはり神様に喜んでもらいたいという思いで皆踊っています。木彫りにしても、寺院の壁や門を飾ったり、全部神様のためということで芸能などが発展してきているところがありますね。
小野 ガムランも本来は神様に喜んでいただくためのものなんですね。
1つ、象徴的な写真を撮ってあります。これはプリアタンの王宮の中のいわゆる屋敷寺で、1人でバリスを踊っているんですね。誰も見ていないけれども、実は神様が見ているんですよ。
ここは既に神が降りてきてご覧になっている。そのときの踊り手は若い少年だったのですが、すごく上手かったです。緊張してやっているわけですよ。人の前でやるからではなく、神様の前で踊るから。
倉沢 私は専門的には何も分からないのですが、連れていく学生たちには1週間でも、男の子も女の子も必ずバリ舞踊は習うようにさせています。村の子供たちは皆上手に踊るんですよね。それで、先生以外にも子供たちが来て一緒になって教えてくれて。
小野 ですから、本当に子供のときから自然に覚えている。
倉沢 習い事をするというのではなくて、生活の一部なんですよね。
小野 例えばティルタ・サリ楽団にしても、あそこで踊っている人は本当のプロフェッショナルですが、それでお金を儲けているわけではないんです。神様に選ばれた人たちなんですよ。ほとんどの子供はああいうふうになりたいわけですけど、本当に踊れる子だけしか残っていない。

「ウブド」という名前
新井 伝説では、8世紀にルシ・マルカンディアというヒンドゥー教の高僧が500人の村人とともに、東ジャワからバリのアグン山に渡ってくるんです。バリ島最初の定住者と言われている人たちですね。
ところが、最初は疫病とか悪霊に襲われて村人は病気になってしまう。そこで、ルシ・マルカンディアは1度ジャワに戻り、瞑想してから再びバリに来ます。そこがチャンプアンという、ウブドからちょっと西に入った、2つの川が交わるところです。
そして、そこには聖水が湧き出ていて、沐浴すると病気が治るというので、その川のほとりに寺院を建てるのですね。それがウブド発祥の地と言われている、グヌン・ルバ寺院なんです。
ウブドという名前も、癒されるとか、薬という意味のバリ語「ウバッド」から来ているんですね。だから、ウブドというのは、「癒される場所」という意味がもともとあるんです。
私も、このような話を、ウブド王宮のスポークスマン的な役割をしていらっしゃる、チョコルダ・ラコー・カルティヤサさんに聞きました。
小野 チョコルダさんのご親戚ですね。
新井 はい。それで、グヌン・ルバ寺院のオダランにも参加しましたが、お祭りではさまざまな舞踊が奉納されますからね。観光客用に披露されている舞踊と違って、地元の空気感や舞踊の深い意味をすごく感じることができますね。
小野 その通りですね。
新井 2009年にグヌン・ルバ寺院のオダランに参加したときには、ケチャ・チェウェッ、つまり、女性のケチャダンスをやっていました。普通ケチャは男性じゃないですか。
びっくりして、地元の人に聞いてみると、2008年からケチャ・チェウェッが始まったというのです。しかも、それをプロデュースしたのはスマラ・ラティ歌舞団のバリス舞踊で有名なアノム氏でした。
そこでアノム氏本人にお話を聞くと、今はグローバルな時代で、女性の活躍もどんどん増えてきているから、バリ舞踊でも女性が平等に参加できるようにすべきだと考え、女性のケチャを始めたと話してくれました。このように進化していくことでバリの伝統芸術がより輝くのだと。
小野 当然、時代とともにいろいろとアダプティブに変わっていくでしょうね。やはり、本物はお祭りのときに見ないといけないと思うのですね。
欧米人芸術家の来島
倉沢 バリ島がオランダの支配下に落ちるのは1900年代の初めですから、そのころからようやく港が整備されたりして、交通の便がよくなり、オランダ人が来始めているのですが、ピークはやはり1930年代でしょうね。オランダ人だけではなくて、メキシコ人やドイツ人とかいろいろな人が来るようになった。
新井 芸術家がたくさんバリにやってきますね。
倉沢 ええ、そうですね。しかも、皆さん長く滞在して、そこの土地の王家と強い絆を持った。ですから、バリの文化は欧米人がつくったと言われているぐらい、もとからあったものを欧米人が観光に適するようにつくり替えていったんです。
新井 ケチャダンスも、もともと厄払いの儀式だったものを、1930年代に、ヴァルター・シュピース(ドイツ人画家)が、『ラーマーヤナ物語』と1つにして、観賞用の舞踊に創り上げたものですからね。
小野 私が懇意にさせていただいているマンデラケイコさんのご主人のお父様が1930年代にガムラン舞踊団を取り纏めて、フランスのパリ万博に連れていった方なんですよ。そのお父様がご存命のときに、ケイコさんを見初めて自分の息子と結婚させようと言われて結婚なさったそうなんです。
チャンプアンにチャンプアンホテルというのがありますが、そこでシュピースがウブドの王様から部屋をもらったところが、今ホテルになっているのだと聞きました。
新井 こうして、西洋の人たちがチャンプアンにたくさん住むわけですね。カルティヤサさんからも、「癒しはインスピレーションを与えるんだよ、だから、多くの芸術家がここに住み着いたんだ」と言われました。
じゃあ私も物書きとして、少し癒しを浴びて帰ろうなんて思ったりもして(笑)。やはりチャンプアンの森は、空気がすがすがしく、鳥のさえずりが聞こえ、山や渓谷があって、棚田もあるという、すごくいいところですよね。
倉沢 そうですね。
新井 そして、バリの人たちもシュピースから遠近法を教えてもらうなどして、バリの絵画が変わっていったと聞いています。
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |