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【三人閑談】
"縄文"再訪

2018/04/01

文様とメッセージ

小林 僕は前に小林達雄先生と一緒に講演をさせていただいたのですが、そういうときに必ず出る質問があって、「縄文土器の文様ってどういう意味があるのですか」というものなんです。

室井 そうでしょうね。

小林 小林先生は、「物的証拠がないから、研究者の立場としては何とも言えない」というお答えだったんです。でも証拠はなくても、縄文人が何か意味を込めていたはずだと思います。

学説というものも、やはりその研究者のインスピレーションのようなものがまずあって、できてくるんじゃないかと思うんです。なので、そういった個人からの学説がもっといろいろ出てきてくれると面白いなと思っています。僕はアーティストの立場なので、自分のファンタジーでもって縄文に触れたい。

縄文時代については分からないことのほうが多いので、見る人によってその人なりのファンタジーがいくらでも展開できる。アカデミックな縄文があってもいいし、文学的な縄文があってもいいし、アートな縄文があってもいい。

室井 土器は弥生以降、うんとシンプルになりますが、縄文土器の文様というのは、やはり物語性があったと思うんです。メッセージみたいなものが何かあったのではないかと、どうしても思いたくなってしまうところがある。

文様、装飾が極端に盛り上がるのは中期です。代表的な名前でいうと勝坂式ですが、大型で、個人の家で使うような鍋釜ではないと思います。共同体単位で何か祭祀をするときに使った特別のもので、だから、埋もれたあともすごく大事に保存されていたのではないか。

その表面は、カエルとかヘビ、あるいは人間と思しきものがある。でも、それらのいずれでもないような感じもある。この中期に盛り上がった土器の文様は、ただの「文様」とは呼べないような、ちょっと何か超越したものを感じてしまう。

小林 次元が違いますよね。

安達 縄文時代は古いほうから草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と分けることができて、1万数千年の間の真ん中の時代を中期と呼びます。その時期の土器は、サイズもほかの時期に比べて大きいのですね。

調べてみると、人口も中期が1番多い。ですので、料理をするにしても、土器でもサイズが大きいものが多く必要だったのではないかという話もあります。また、持ち運ぶという観点からしても、中期の気候は温暖で、環境も比較的安定していたので、その地域に集落をつくって長く住むことができたところが多かったようです。移動しなくてもすむので、大きな土器でも大丈夫だったのでしょう。

三内丸山遺跡は、前期の中頃から中期の大集落ですが、中期の終わりには本当に小さくなってしまって、気候の寒冷化した後期には集落が近くの別のところに移動したとされています。中期の大集落は、発掘すると土よりも多く土器が出て、その収蔵場所に困るくらいなんです。三内丸山遺跡では円筒土器の大きな破片が出てくるのですが、他の地域でも中期の土器は、新潟県の遺跡から出土する火焔型土器(写真)をはじめ、すごく引きつけられますよね。

火焔型土器(新潟県馬高遺跡出土、『縄文土器大成2』(講談社、1981 年)より)

「縄文」と「縄紋」

室井 安達さんのご著書のタイトルは『縄紋土器の系統学』となっていますが、「縄文」ではなく「縄紋」というのにはやはり意味がある?

安達 ええ、特別な意味があります。縄を転がして模様をつけたものに関しては糸へんをつけて、「縄紋」とします。一方、手書きなど他の模様、「文様(もんよう)」には糸へんをつけません。これは、1920〜1960年代に活躍された山内清男先生というもとは生物学・人類学を専攻された研究者が、最初に区別されたものです。

室井 山内先生がどこかで書いていたのですが、昭和6年くらいの話で、棒に撚(よ)り紐をコイルみたいに巻いたものを、机の上で転がしてみた。

安達 そう、それで縄で模様をつけたんだ、ということに気づいたらしいですね。

室井 それまでは、回転させて模様をつけるということが分からなかった。縄以外の文様も多いですよね。

安達 ごく細い竹筒とか貝とかもありますね。一方、植物の繊維を撚って作る縄には、撚り方によって、多くの種類があります。さらにその縄の転がし方にも、バリエーションがあるので、「縄紋」は、相当多種多様です。山内先生はこれを把握された。それだけでなく、縄文時代の多くの土器に加えられている「縄紋」に地域や時期ごとの特徴があることを見出されて、「縄紋」を土器の分類の重要な基準の1つにされた。他の「文様」とは区別されたのです。

室井 もう1つ、僕もよく分からないのですが、縄文時代には絵画表現がないということです。あれだけ精霊の信仰みたいなものが濃厚にあった時代に、絵画に類するものが1つもないということは、異様な感じがする。これは僕が勝手に想像しているのですが、絵画は禁忌としてあったのではないか。

つまり、当時も小林さんのようなアーティストはいっぱいいて、描けばいくらでも描けたんだと思う。けれども、精霊みたいなものを形にして表現してはいけないという禁忌があったのではないか。

絵画や音楽という方向にはあえていかなかった縄文の人々が、土器に文様を残した。これをどう理解すればいいのか。

もちろん、今でいう文字とは異なると思います。ただ、当時の人がそれを見て、まさにアニメのように、何か物語として理解できる一連のパノラマになっていたのではないかとも思うんです。

小林 僕は、土器の文様は、言語化できないエネルギーの流れを形にしたものだと思っています。踊っていたりするときの感覚って、この文様の感じに近いんじゃないか。そういうエネルギーを形として固着させたものが、縄文土器の文様だと思っています。
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