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田中 智行:『新訳 金瓶梅』で日本翻訳文化賞を受賞
2026/01/15
「10年かかる労作展」
──小泉信三先生が『読書論』で若者にとにかく大きな古典を読みなさいとおっしゃっています。まさに大きな古典と格闘されてきたわけですが、なぜ『金瓶梅』を研究対象に選ばれたのか。また、そもそもなぜ中国古典文学の世界に入っていったのでしょうか。
田中 普通部の頃に労作展で『西遊記』の研究をした時から、すごく面白い世界だなと思っていました。塾高に来て、文学部に行こうかどうか悩んだ時期には阿久澤先生に背中を押していただいたこともありましたね。
『金瓶梅』については、大学院入試の時に、英語と中国語の古典白話文(口語文)を一挙に勉強してみようと思ったのがきっかけです。読んでみると概説書などに書かれている『金瓶梅』と私が今ここで読んでいる作品に感じていることとはどこか違う気がしたのです。若いだけに思い上がったところもあって、この面白さをわかっている人はひょっとしたらあまりいないのでは? これを言葉にすることにはきっと価値があるはずだと思ったのです。
もちろん当時は単なる直感でしかないのですが、ここに問題があるだろうという勘は大きく外れてはいなかったと思います。ですので、研究者として選んだというより、それに取り組んでいるうちに幸い研究者になれたという感じでしょうか。
『金瓶梅』だけは、修士の頃からきちんとやらないといけないと思っていて、きちんと読むには全訳するしかないのではないかという思いがありました。ノートを作りながら読むことを修士の頃からやっていたのですが、もう片っ端から全部訳そうと、30代後半から40代にかけて、「10年かかる労作展」をここでもう1回やってみようと思ったのですね。そこは少し自分を褒めたいかもしれません。
──根底にあるのは普通部の労作展だと。私は塾高で普通部卒業の生徒をたくさん見ていますが、田中さんはある種、典型的な普通部の生徒です。興味があることを労作展で自分に種をまいて、それをずっと温めながら成長している。確かに『金瓶梅』の完訳の分厚い全3巻はまさに労作ですよね。
田中 有り難うございます。労作展の時の作品と何となく似ているところがあると思います。1年生、2年生、3年生と作った原稿用紙の束が大人になると分厚い3冊本になるんだなと。
いろいろな成り行きもあったのですが、何が何でもこれだけはやらなければという気持ちがあり、どんなことがあっても4時か4時半には起きてやることを譲りませんでした。自分の中でだけ抱えている一種の妄念のようなものだったかもしれませんが、自分にとってかけがえのない仕事になって、幸いなことに世に出すところまでたどり着き、おまけに賞までいただけたので幸せなことだと思います。
──福澤先生が「自我作古(我より古(いにしえ)を作(な)す)」という言葉を使っていますが、田中さんの気概は、まさに自我作古の気概だと思います。
生成AI時代に古典を「読む」こと
──ところで、今は生成AIの時代で、こちらが望むことがどんどん答えとして返ってくる時代です。この生成AIの時代に「読む」ということの意味をどう考えますか。
田中 生成AIはデータ化されたものを加工、処理して、別の結果を導き出すわけです。一方、人間の書いた文章というのは、そこに書いた人がいるわけで、最終的に書かれたものの後ろにいろいろな過程があります。ですから、出てきた回答がたとえ生成AIと同じであっても、その裏にはその人独自の人生や社会背景などがある。
人間が書いたものを人間が読み取るというのは、その奥にあるものまで含めて、同じように生きている者同士として理解するということだと思うんですよね。それはひょっとしたら、書いた人に聞いても、答えられないことなのかもしれない。
生成AIは、時にはわからないこともでっち上げて「わかりました」と言ってしまう。しかし、わからないところに魅力的な謎を感じ取り、何か根拠を探して、立ち向かっていくところが面白いので、それが「読む」ということだと思うんです。そこはAIの、表に出てきたものを処理するというスタイルとは違う気がします。
──「わからない」ということに耐えるのが、古典と格闘する苦しさでもあり、面白さでもあるということですよね。『金瓶梅』と格闘し続けた10年間は、まさに自分の頭で考え続けた時間だったと。
田中 そうですね。そういう時間が40代に毎日持てたことは、振り返れば幸福なことだったと思います。
──今回の記事はぜひ塾高生に読ませたいのですが、一貫教育校の生徒、そして大学の若き研究者のたまごに何かメッセージをお願いします。
田中 『金瓶梅』は大学4年から修士1年ぐらいの時に初めて「おっ」と感じるものがあった。そのぐらいの時期に抱いた問題意識はすごく大事なのだろうとは思います。
さらに遡れば、私は普通部の頃に『西遊記』を要約するところから始めました。要約というのは地図を作るようなところがあって、例えば明代の長編白話小説がどういうものなのか、歩き方をつかむいい訓練になります。『金瓶梅』は『西遊記』に比べると少し変化球的なところはありますが、大学4年で英訳と読み合わせた時、こういうことがやりたいんだろうなという球筋が、初めて見えた気がしたんです。今はまだバットを振っても当たらないけれど、鍛錬していけばきっとこのボールは打ち返せるはずだと。
逆に、若い頃に学会の主流や権威がこう言っているのだから、こう思うべきなんだろうと、お勉強で「克服」してはいけないと思います。本当に自分で突き詰めていってわかったもののほうが少なくとも自分にとっては尊いに決まっている。もちろん勉強は必要ですが、自分の思っていないことを思ったふりをしたら駄目だと思うんですね。出発点では、愚直なぐらいに自分の関心を信じることが必要だと思います。
──中国文学者の立派な顔になりましたけれども、考え方は塾高1年生の時の田中くんと全然変わらないと思いながら話をお聞きしました。今日は有り難うございました。
(2025年11月9日、慶應義塾高等学校校長室にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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