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田中 智行:『新訳 金瓶梅』で日本翻訳文化賞を受賞

2026/01/15

  • 田中 智行(たなか ともゆき)

    大阪大学人文学研究科教授

    塾員(2000文)。2025年、『新訳 金瓶梅』(鳥影社)を完成・刊行し、第62回日本翻訳文化賞を受賞。

  • インタビュアー阿久澤 武史(あくざわ たけし)

    慶應義塾高等学校校長

『金瓶梅』という作品

──この度は『新訳 金瓶梅』(全3巻、鳥影社)で日本翻訳文化賞のご受賞、本当におめでとうございます。

田中 有り難うございます。賞をいただいた時、「あ、本当にとってしまったな」と。伝統のある賞で、伝説的な翻訳家の瀬田貞二さんや柴田元幸先生など、錚々たる顔ぶれが受賞されているので、本当に身の引き締まる思いで、びっくりしました。

──本当に素晴らしい。まず、あらためて『金瓶梅』という作品の魅力を教えていただけますか。

田中 外形的には『水滸伝』の、今風に言うとパラレルワールドものとでも言うのでしょうか。『水滸伝』の中に出てくる登場人物で、素手で虎を殺してしまう豪傑の武松というのがいて、そのお兄さんの武大がさえない醜男ですが、絶世の美女、潘金蓮を妻にしています。しかし、潘金蓮は夫の武大を心底嫌い抜いていて、最初は武松に懸想をするのですが、袖にされてしまうと、西門慶という男と不義密通を働くことになる。もともと『水滸伝』では、この2人が武大を毒殺し、武松に復讐される。それを『金瓶梅』では、武松が殺したのは西門慶ではなく一緒にいた連れだった、という話に仕立て、生き残った2人がその後、どのような生活を送ったかという物語にします。

西門慶には他にも妻と、妾(しょう)と呼ばれる夫人たちがいるので、彼女たちとの家庭生活、それと西門慶が属する役人世界の描写といった、家庭小説、社会小説として読まれることが一番多いのではないかと思います。

四大奇書と言い習わしますが、他の3つ『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』が英雄豪傑によるチャンチャンバラバラの活劇的な内容であるのに対して、血沸き肉躍るような場面はない。それなのに読んでいて感情を動かされるその魅力は、現実描写の細かさが大きいと思います。例えばどういう住まいに住んでいたかとか、どういう調度品があったか、どういう食べ物を食べていたかなど。文章がとても上手い人が書いているので、楽しみながら味わうことができる。かつ、それが作品世界の中に有機的に息づいているところが面白くて、読んでいて本当にだれ場がない作品です。

──とても生々しい性描写もありますが、中国ではどのように読まれてきたのでしょう。

田中 中国の伝統的な言説の中では、エロチシズムが素晴らしいということは、たとえそう思った人がいたとしても、ほぼ記録に残らない。そういう場面もあるけれど、これは戒めのために書いているんだという言説になるわけです。「淫」と言われる領域に、読者が1回引き込まれるような描写も、それがひいては災いをもたらすのだといった具合です。言ってみれば因果話として読者も引き込んだ形で一種の説教を繰り広げているという理解です。

そして近代に入ると、社会小説やリアリズム小説といった見地から『金瓶梅』を再評価する声が中国でも増えてきます。

──イメージから「淫書」のように捉えられがちですが、必ずしもそうではないと。

田中 淫書という言葉の定義にもよると思います。例えば食に対しても服飾に関してもある意味で「淫」している。そういう意味では、性的な意味でのみ具体的で生々しい描写が続いていく小説ではないことは確かだと思います。

──リアリズム、社会小説的な意味で魯迅もかなり評価したんですよね。

田中 そうです。同時代の小説にこれを超えるものはないと言っています。とにかく端的に面白い小説で、下世話な興味も含めて、人間の心理を隅々まで穿った描写が続きます。それがセリフの端々に表れていて、同時代の他の小説と比べて際立っていると思います。ですから、このセリフがどういう意図で言われているのかをよくよく考えて訳さないといけません。

完訳の意義

──今回、『金瓶梅』を新訳で完訳されたことの意義は、どういうところにありますか。

田中 今まで日本で一般的に読まれてきた平凡社のものと、同じ訳者たちによる改訳である岩波文庫のものは、性描写も含めて訳していないところが、ちょこちょこあります。

『金瓶梅』はあらすじにしたり、飛ばし読みで理解するのが難しい小説です。性描写もいろいろな意味で作品の不可欠な要素になっているので、ある部分をカットとしてしまうと筋もつながらないし、作者が意図する読者の感情の揺さぶりも味わえない。

私は当初、平凡社の訳で読んで、全然わからなかったのです。それが大学院を受ける際、受験勉強にと、シカゴ大学のデヴィッド・ロイ先生の畢生の大作、The Plum in the Golden Vase or, Chin P’ing Mei と題する英訳が第1巻 だけ出ていたのを、三田の図書館にリクエストして、原文と突き合わせて読み始めたらすごく面白かった。原文をきっちりと翻訳したら、日本語でも面白いに違いないとそのとき思いました。

例えば、西門慶は遊び仲間と義兄弟になっていますが、その義兄弟の1人が、自分たちに隠し事をした西門慶を咎める場面があります。「兄貴は水臭いじゃないですか」ということを言った後、「俺たちは生まれた時は兄貴とは違うけれど、死ぬ時もやっぱり別々がいいと思っている」と言うんです。これは『三国志演義』の「生まれた時は別々だったけど死ぬ時は一緒だ」という誓いの言葉をパロディにしている。

しかし、平凡社や岩波の訳は、何の断りもなく「死ぬ時は一緒だ」という方向で訳している。饒舌なセリフの中のどっきりするようなユーモアを、今までの翻訳だと味わえないわけです。

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