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湯浅 綺宙:チアダンサーとして NBAファイナルの夢の舞台へ

2025/12/15

チアを全力でやりきる決断

──研究をしっかりやったことで、その後、パナソニックに就職し、プロダクトやサービスの製品開発や企画に関わるようになりました。就職活動ではどのような点を重視したのでしょうか。

湯浅 2つのポイントがありました。1つは、自分がテクノロジーを使って新しい体験をつくることで人の心を動かせるような仕事ができること。もう1つはチアも本格的にやれることです。いずれアメリカも目指したいと思っていたので、仕事とチアを両立できる環境づくりを意識していました。

──パナソニックに入っていかがでしたか?

湯浅 パナソニックから内定をいただいた後にガンバ大阪のチアリーダーのオーディションに合格したのですが、チアをやっていることやアメリカのチアに興味があることを最初からお伝えしました。それにより、"チアの人"として受け入れていただけたのはありがたいことでした。

──チアの活動に対して職場の理解があったのですね。仕事ではどのようなことにやりがいを感じましたか?

湯浅 もともとテクノロジーの社会実装に興味があったので、実際に人が使っている現場に携われるのはとてもやりがいがありました。そこで出てくる課題をどう乗り越えるか、といったことに挑戦できるのも、恵まれた環境だったと思います。

──社内ではどのようなことを議論していたのでしょうか。

湯浅 新規事業の部署にいたので、今までやったことがないようなことを考えてみようという話はよくしていました。例えば自社の家電をまったく新しいコンセプトで再定義するとどうなるか、また新しい機能を付けるとしたらどういうものがいいか、といったこともテーマになっていました。

──大きな実装力をもった会社で仕事ができる一方で、ガンバ大阪のチアチームという、国内でも華々しく活動する機会に恵まれました。アメリカを目指してチアのほうに舵を切る時、どのような葛藤があったのでしょう。

湯浅 すぐに決められるものではなく本当に悩みました。社会の状況や制約を覚悟しつつ、最終的にチアを選びました。私は学生時代から研究や仕事とチアとの両立を本分としてきましたが、歳を重ねるとチアで大きな挑戦をすることが難しくなると思い、チアを全力でやり切ろうと最終的に決めました。

──日本で両立し続ける選択肢もあったと思いますが、そこで満足せず、退路を断つ決断ができたのは、どういうモチベーションがあったのでしょう。

湯浅 ガンバ大阪に4年間在籍し、後半の2年はキャプテンも務めました。この時、本当にやりたいことをやり切ったイメージがありました。

その頃に知ったアメリカのチアは活動の幅が広く、地域とチームの発信に貢献する社会のロールモデル的な存在でした。Jリーグはまだそのレベルまで行けていないと感じていました。

アメリカに挑戦したいと思ったのは、日本のチアのさらなる可能性が見えたからです。現地の活動を知り、現場のリアルを学んで、最終的に日本にその学びを生かして貢献したいという思いがありました。

──アメリカではチアの役割がもっと豊かで、そこに飛び込みたいというワクワクする気持ちがあったのですね。

湯浅 プロバスケットリーグ(NBA)やナショナルフットボールリーグ(NFL)のチアには、「アピアランス」と呼ばれる地域貢献の活動があることを知り興味を持ちました。ガンバ大阪チアに挑戦したいと思ったのは、かつてNFLで活動されていた方がディレクターを務めていたからでもありました。アメリカのチアのことを教えてくださる存在が身近にいるのはとても大きいことでした。

後がない状況で挑戦し続ける

──アメリカのチアに挑戦することを決め、オーディションに参加される中でさまざまな苦労があったと思います。

湯浅 語学力やダンススキルに加えて大変なのがビザの取得でした。自分で弁護士を雇い書類を準備しなくてはなりませんでした。弁護士の知り合いもおらず、法学部出身の友人に尋ねたり、チアの先輩を通して紹介していただいたりしました。人のつながりの大切さを実感しました。

──オーディションを受け、NBAのオクラホマシティ・サンダーから合格を勝ち取るまでに、「この壁は大変だった」というエピソードはありますか。

湯浅 オクラホマシティ・サンダーに合格する前に、すでに多くのチームで不合格になっていました。仕事を辞め、覚悟して来ていたので、この時期はとても辛かったです。後がない状況でやるしかない中でなかなか前に進めない、そんな状態が半年近く続きました。

──その間にいくつ受けたのですか。

湯浅 片手では足りないほどです。ソーシャルメディアやウェブサイトに告知が出るのですが、オーディションは1チーム年1回しか行われません。日程が重ならず、私の挑戦の目的を果たせるチームを探して受けていました。

──一番遠い都市はどこまで行ったのでしょう。

湯浅 東はインディアナ州、西はカリフォルニア州です。インディアナ州には日本からの直行便がない上、乗り継ぎのフライトがキャンセルになって空港に泊まるといったアクシデントもありました。

──初めて行く場所で不安と孤独の時間だったと想像しますが、苦労が実り、オクラホマシティ・サンダーのオーディションに合格します。どのように連絡がくるのですか?

湯浅 結果発表の時はすごく緊張しました。チームからは「○月○日○時にインスタグラムで発表します」と告知があり、スマートフォンの画面をひたすら更新して待っていました。そのうちに「今年のチーム発表」の動画が流れ始めるのですが、自分の名は一向に表示されない。最後の最後に「Kihiro」と表示され、一気に感情が溢れ出して涙しました。

──それは鳥肌ものですね。ちなみにオーディションでは「ここがよかった」といったフィードバックはあるのでしょうか。

湯浅 いえ、どのチームもありません。自分で分析するしかなく、不合格の時は周りの人の動きなどから「自分はここが足りていなかった」と分析するしかありませんでした。

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