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湯浅 綺宙:チアダンサーとして NBAファイナルの夢の舞台へ
2025/12/15
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インタビュアー牛場 潤一(うしば じゅんいち)
慶應義塾大学理工学部生命情報学科教授
テクノロジーで人の心を動かす
──湯浅さんは慶應に在学中の6年間、チアと研究を両立し、大手メーカーに就職後も製品開発とプロチームのチアリーダーの双方で活躍されました。最初は薬学部に入学されたのですね。
湯浅 はい。薬学部に入学し、2年生で理工学部応用化学科に編入しました。もともと化学が得意だったこともあり、将来はテクノロジーを使って新たな医療をつくる仕事がしたいと考えていたのです。その後、より関心の強い分野で学べる理工学部に編入しました。
──その頃から骨太な領域に挑戦したい意欲があったのですね。
湯浅 そうですね。自分の力で人の体験を変えたり、心を動かしたりといったことに強い興味がありました。それはチアを続けることにもつながっています。
──大学院も応用化学の道に進学すると思いきや、医療機器を開発している牛場研究室に入られました。学部時代の僕の授業がきっかけになったそうですね。
湯浅 その授業は鮮明に覚えています。牛場先生は人と向き合ってテクノロジーで新しいことをしようとしておられ、その先の社会実装まで目指して研究されていることに衝撃を受けました。講義を聞き、これこそ自分がやりたいことだと思い、大学院で研究室を変更しました。
──薬学部と応用化学科ではケミストリーを勉強し、大学院から情報や計測といった工学的な要素が強い神経科学に移籍されました。そのことに不安はなかったですか。
湯浅 ワクワクのほうが大きかったと思います。不安よりも「こんなことができる」という楽しみがありました。実際に研究室に入ると、大変なこともたくさんありました(笑)。
チアと研究を両立してこその自分
──湯浅さんはいつも自己管理をしながら計画的に学んでいるように見えました。研究室のメンバーとも融和し、自分の居場所をつくって成長していく印象がありました。チアは大学から始めたのですね。
湯浅 入学と同時に、独立公認団体として活動しているUNICORNS Songleaders に入りました。高校にはチア部がなく、まったくのダンス未経験からのスタートでした。
──それも新しい分野へのチャレンジですね。チアは体力勝負で、競技団体ならではの組織文化もあると思います。研究と競技との両立は大変だったでしょう。
湯浅 そうですね。課題や実験に追われ、時間と体力の勝負でした。
──牛場研究室でもほぼ毎日、メンバーが矢上キャンパスのラボに集まるので時間や場所の拘束が強かったと思います。ご自身の活動をどのようにマネジメントしていたのですか。
湯浅 時間の管理はもちろんですが、「どちらもやってこそ自分」というマインドがあったので、両立するために周りへの理解を得ることも心がけました。チアの同期にも、まずは興味を持ってもらえるように「こういう研究をしています」と共有し、研究室でもチアの話を積極的にするようにしていました。
──研究室のリサーチもユニークな着眼点の結果を出していました。研究もしっかりやったからこそ、みんなが湯浅さんを応援したのでしょう。研究室で印象に残っているエピソードはありますか。
湯浅 牛場研究室のメンバーは皆、とても生き生きしていました。牛場先生が外部の方々との関係を築きながら研究されているところにも刺激を受けました。いろいろな人からインスピレーションを得られるので、自然と頑張ろうという気持ちになれたのです。
よく思い出すのは、みんなで学食に行ったことです。研究以外の話からも刺激を受けられる良い環境でした。
──僕は研究室を交流の場にしたかったので、そのように言ってもらえるのはとても嬉しいです。
湯浅 基礎研究の基盤の上に、テクノロジーの社会実装を目指す研究室なので、夢を語り合う時には「こういうプランで」と具体的に考える風土がありました。そういう仲間がいたからこそ、「私はこうしよう」と考える力や実行力が身に付いたのだと思います。
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湯浅 綺宙(ゆあさ きひろ)
チアダンサー、元NBAオクラホマシティ・サンダー・ダンサー
塾員(2016 理工、2018 理工修)。2023年渡米。NBA オクラホマシティ・サンダーのチアダンスチームメンバーとしてファイナルの舞台を彩る。