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友成 晋也:アフリカで野球を通じての人材育成に尽力
2025/11/07
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インタビュアー加藤 貴昭(かとう たかあき)
慶應義塾大学環境情報学部教授、体育会野球部部長
JICAに入職して
──友成さんは、30年間アフリカで野球の普及に取り組んで来られました。まず、塾高・大学の野球部時代はいかがでしたか。
友成 当時の慶應義塾高校は20年程甲子園から遠ざかっていて甲子園なんて夢のまた夢。僕はもう高校で野球は終わりだと思っていたんですが、最後の夏の県予選の強豪武相高校戦でなぜか活躍し、先輩から誘われて悩んだ末に大学でも野球部に入ったんです。
大学に入ると、ショートは4年生に上田和明さん(後に巨人)、3年生に奈良暢泰さん、2年生に布施努さんがいる。バッティング練習で三遊間にボールが飛んで来ると、上田さんが軽快なステップで回り込み、ワンステップでヒュッとファーストにボールを投げる。
次に奈良さんが、もっと深いボールに素早く入り、そこからノーステップでものすごいボールを投げる。それを見て、「ベンチ入りも無理だな」と。
──同期だと誰がいましたか?
友成 猿田和三、鈴木哲、加藤健、加藤豊など、リーグ戦で活躍する選手がいて、このメンバーが全日本に選出され、日米大学野球選手権に行きました。先輩、後輩にも優秀な選手が多く、在籍中に全国優勝を2回経験させてもらいました。
──卒業後、リクルートコスモスを経てJICAに入られたのですね。
友成 国際的な仕事がしたくて、この時代は国際不動産が流行り始めた頃なので、かっこいいなと思い、コスモスに入ったのです。でも、入ったらいきなりリクルート事件は起きるわ、バブルは崩壊するわで、国際不動産どころではなくなってしまった。どうしようかと思った時に、JICAが中途採用の募集をしていて転職しました。
JICAに入ると仕事が面白くてしょうがない。途上国でいろいろなプロジェクトをやるのですが、JICAは外部の様々な専門家の方を連れてきてチームをつくり協議します。皆でコミュニケーションを取りながら合意形成して相手側に交渉する。そのプロジェクトが成立するまでの過程で野球部の経験がすごく生きて、楽しかったのです。大学野球部ではベンチにも入れませんでしたが、JICA職員としての自分の役割は、メインプレーヤーでチームを率いていくような形でした。
JICAで最初に配属されたのは広報課でした。広報はいろいろな情報収集をする必要がありますが、自分は中途採用だから同期がいないのでJICAの中でネットワークをつくるために三田会をつくりました。もう30年の歴史がありますが私が創設者です。
アフリカに野球を広げる
──それからガーナに赴任されるわけですが、そこで野球を始められたきっかけは何だったのでしょう。
友成 ガーナに赴任が決まる直前まで真剣に草野球をやっており、最後の試合の後、監督に「ガーナでも子どもたちにキャッチボールぐらい教えたい」と言ったら、「じゃあ、友成君のために皆で野球道具を集めよう」と、段ボール2箱分くらいグローブが集まりました。その話がガーナ事務所に伝わり、赴任早々、「今度、ガーナチームと在留邦人との試合があるんです。出ませんか」と誘われました。
全日本チームvsガーナナショナルチームという立て付けで、4番ショートで出ました。相手はナショナルチームとは言いながら、せいぜい110キロぐらいの速球の選手。僕はタイムリーヒットを打ったり、三遊間のゴロを、わざとダイビングキャッチしたりして盛り上げました。終わった後に「ぜひナショナルチームの監督をやってください」と言われ、驚きましたが、「やりましょう」と言ったんです。
それから3年の間に日本のTV番組「奇跡体験 アンビリバボー」がやってきて、「奇跡を目指す野球チーム」と言われて日本で放映されました。そこが、まず1つの出発点でした。
──それからガーナ以外のアフリカ各国でも野球の指導をされるようになりますね。
友成 今につながる大きな経験があります。1999年9月、オリンピックの予選でもある、オールアフリカゲームズというものにガーナのチームを連れていきました。
その開会式で南アフリカのムベキ大統領がスピーチをしました。「皆さん、ようこそ南アフリカへ。アフリカがここに集まった。アフリカは1つだ。"Africa is gathered. Africa is one!"」と言ったんです。その瞬間、スタジアムだけではなく、グラウンド上の53カ国の選手団がブワーッと盛り上がった。その渦中に僕もいて鳥肌が立ちました。僕のアフリカ観を変えた瞬間でした。
ご存じの通り、アフリカはイギリス、フランス、ベルギー、イタリアなどの植民地で、国境線が勝手に引かれ、同じ民族でもバラバラになってしまったところもある。でも、例えば南スーダンの難民をウガンダが「"Africa is one" だから」と受け入れるように、日本人には見えないフィロソフィーのようなものがあるようです。
それを僕は肌で感じ、ガーナ1国を支援するという話ではないと思った。だからJICA在職時代につくったNPOは、ガーナ野球友の会ではなく「アフリカ野球友の会」なのです。アフリカが一つになるような手助けができたらなという志です。そうやってウガンダ、ザンビアやケニアなどで野球を広め始め、タンザニアでも、南スーダンでも野球をゼロから立ち上げ、代表監督を務めてきました。
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友成 晋也(ともなり しんや)
一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構(J-ABS)代表理事
塾員(1988経)。1996年JICA職員としてガーナに赴任以降、アフリカ各地で野球を指導。2020年JICAを早期退職し、J-ABS に専念。