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新井 高子:第6回大岡信賞を受賞

2025/05/15

詩が生み出す、新しい言葉

──『おしらこさま』に戻りますが、その中の詩は、東北の方言だけでなく、その中にそれをさらに生かすような別の口語体がときどき混じってくるところがわざとある。それで読者にいろいろな異物感を感じさせる。それが、この詩集の全体の魅力になっていると思います。

新井 結局、詩というのは、すべての詩人がどこかで新しい言葉を探しているからこそ、作品になるのだと思います。その挑戦を各自がいろいろなやり方でやっているのだと思うんですね。

この詩集の場合は、ともかく濁音は握り続けようと思いましたが、やはり1篇1篇が新しい旅で、実際にはそれぞれで文体が微妙に違います。気仙弁の力が乏しいからこそ、新しい言語に向かって激しく挑めた面があります。

──これは本当に驚くべき詩集でした。素晴らしい仕事です。

新井 有り難うございます。土俗性にはずっと興味があったんです。かといって、現代詩人としてほのぼのしたものを書いてもしょうがない。都会人として背負っている今日性も含め、民俗学を掘り返したい思いもありました。

文学の言葉は、明治以降に純粋な書き言葉になったと思うんですね。例えば和歌は詠う声とも両立してきました。

雑誌『ミて』は、折口研究もされている藤井貞和さんが創刊時期のメンバーの1人で、その盟友の山本ひろ子さんとも私は深いおつき合いをしています。ですから、芸能の声と文学が相乗していた近代以前の光明を、批評的に今に持ち込めないかと考えることも、現代東京人の仕事だと思っています。

ディクテーション役として詩を紡ぐ

新井 実は、これらの詩を書く時、限りなく誰かの声、どこにいるのかしれない不思議な老婆や子どもの声を聞き、私自身は書き取る係という感じでした。

──まさに霊媒、イタコの再来ですね。

新井 いえ、イタコなら、速く書けるだろうと思うのですが、私、詩を書きながら行き詰まると、寝るんですよ。

田舎の子だったから今も文机で、鉛筆で書くのが好きなんです。椅子だと、そこから降りないと横になれないけれど、正座や横座りで書いているので、座布団にホニャッと寝てしまう(笑)。しょっ中、うたた寝しながら書いています。

──今の話を聞くと、実は一見程遠く見える、シュルレアリスムの自動記述と結構近いところにいるようにも感じます。

新井 先日、巖谷國士さんに唐十郎とシュルレアリスムについて尋ねたところ、自動記述の特徴も伺うことができました。その時、自分の経験としても何となくわかるような気がしました。

──ディクテーションであるところも含めて、まさにそれはアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言以降ずっと言っていることと通底している。

新井 でも自動記述にはスピード感があると思いますが、私は鈍くてスロー。

──自動記述は超高速で書くものと思われがちですが、そんなことはなく、むしろ、主体がどこでなくなっていくかということが重要なんです。

新井 確かに、自分であらかじめ書こうと思った第1行は、必ず挫折します。今回もいけてない、どうしようと思って、それはとても辛いことでもあるのですが、だから匙を投げるみたいに眠くなる。するとちょっとだけ書けて。

──詩の創作の秘密を今すごく語ってくれたと思います。

新井 それで上手くいく時もあれば、空振りして終わる時もあって(笑)。小さい頃、「高子は呑気」と母に言われましたが、今もそのままなんです。

──でも、この詩をのほほん、ホンワカみたいなつもりで読むと、ひどいしっぺ返しを食うことだけはあらかじめ言っておきます。

最後に、何かこれからの展望は考えていらっしゃいますか。

新井 この詩集の詩を書きながら、東北おんばの本や映画を企画し、戯曲評論『唐十郎のせりふ』(吉田秀和賞受賞)を執筆しました。思えば、それらは詩作のエンジンでもありました。

ですから、次の批評活動として何がしたいかと言えば、柳田國男や折口信夫を読み込みたいです。そして、私なりの芸能論が書けないかと夢見ています。そんなノートをしたためながら、新しい世界を見つけ、次の詩集の道しるべにしていけたらと思っています。

──これからの新井さんの一歩歩に瞠目して注目していきたいと思います。今日は有り難うございました。

(2025年3月7日、三田キャンパス内にて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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