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新井 高子:第6回大岡信賞を受賞

2025/05/15

  • 新井 高子(あらい たかこ)

    詩人、埼玉大学教授、詩誌 『ミて』 編集人
    塾員(1990 文、92 社研)。詩集に『タマシイ・ダンス』『ベットと織機』など。 『おしらこさま綺聞』で第6 回大岡信賞受賞。学生時代の趣味は旅。

  • インタビュアー朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)

    詩人、慶應義塾大学名誉教授

詩を書き、留学生に日本語を教える

──第6回大岡信賞ご受賞、おめでとうございます。私も『おしらこさま綺聞』を拝読して深い感銘を受けた1人として、受賞をすごく喜んでいます。まず、新井さんが詩人になられた過程をお聞きしたいと思います。

新井 私は高校時代、進路のことを考えながら、ふと、小学生の時に詩を書くのが好きだったことを思い出し、ともかく文学部に入ろうと思ったんです。慶應では、1年生の時に三木亘先生のイスラム史の授業を取って感銘を受け、こういう広い世界のことを知りたいと思って東洋史学専攻に進みました。当時は、とても小さい専攻で専任の先生が4、5人で学生は12人。ですので先生方に大変可愛がられました。

卒業論文は中国史で書き、可児弘明先生に大変お世話になりました。あの世代の方々は一種の文化人ですから、三木先生も若い時に小説を書いておられ、詩にも詳しく、私が文学の話をすると面白がってくださいました。

そんな感じで大学時代を過ごしましたが、それなりに恋愛も失恋もします。そんなきっかけで、「何か、詩を書きたい」と思い始めました。また修士課程の時、吉増剛造さんや辻井喬さんによる詩学の講座が開講され、その授業にも刺激されました。

展望の定まらないまま大学院では民俗学を専攻しましたが、将来、日本語教師ができれば、調査をしながらでも暮らしが立つのではと、国際センターの日本語教授法講座も取りました。

幸い、世の中は留学生拡大政策の時代で、修士を終えると、いくつかの日本語講師の職がいただけました。同時に、創作や批評に興味のある同世代たちと小さな雑誌を立ち上げ、留学生に日本語を教えながら詩を書く、今の土台ができてきました。

──私が仏文学専攻の学生時代、慶應はあまり文学青年みたいなのが多くいる感じではなかった気がします。そのような中、すごく孤独な感じで詩を書いていました。新井さんはいかがでしたか。

新井 吉増さんの授業には詩が好きな多摩美の学生なども来ていて、彼らとも一緒に、その名も『四面楚歌』という雑誌を作ったんです。のちに文学者、人形作家、陶芸家などになっていく人たちがいましたが、吉増さんは何度か、私たちと一緒にお酒も飲んでくださって。そんなことで、詩を書いている自分と世間とが結ばれた気がします。

──それは幸運な出会いだと思います。また、ちょうど留学生に日本語や日本文化を教えるという、新井さんの関心にも、すごくいい具合に出会っている感じですね。

新井 そうなんです。この詩集に辿り着いたことも、日本列島の言葉にはどういう歴史や特徴があるのだろうと、ある意味では外側から客観視できる自分がいたことも大きいと思います。留学生とおしゃべりしながら、自然とそれを考えていったのかと思います。

口語体で詩を書くということ

──実は新井さんは詩歴はずいぶん長く、学生時代から書いていらして最初の詩集が1997年です。このところ特徴的なのが、東北地方の方言に着目されていて、石川啄木の歌を東北弁に翻訳したり、またドキュメンタリー映画『東北おんばのうた―つなみの浜辺で』(鈴木余位監督)という作品の企画製作もされている。『おしらこさま綺聞』も、東北弁がメインになっているような言葉で書かれている。でも、それだけではなく、もっと今日的な造語風のものなど、いろいろな位相の日本語が混じっているのが特徴です。

私が感心し、かつ驚いたのは、この詩集の内容です。人間の深部、例えば性にまつわる問題や、死生観にかかわる問題、あるいは、タブーの問題などが主題になっている詩がたくさんある。まさにそういうテーマが、東北の方言らしい言葉を基礎にした口語体で書かれている。方言による口語だからこそ書けたようなところがあるのかな、とも思ったのですが、いかがでしょうか。

新井 その通りです。実は、口語体に関心を持った始まりも、日本語教師であることと繋がっていて、はや、30年位前の駆け出しだった頃、留学生から「日本の小説が読みたい」と言われました。当時は中上健次や大江健三郎の時代ですから、中上の作品をその視点から読んでみると、教室では90分かけても15行ぐらいしか読めないだろうと思いました。文の構造も語彙も、留学生にはたくさんの説明が必要で。

ところが、ある時から小説の言葉が日本語教育でそのまま教えられるくらいに「フラット」になってきたのに気付きました。教師としてはありがたいですが、創作者としては、何かとてつもないことが日本語空間に起き始めているのではないかと感じました。日本の近代教育が行きわたり、教育やその装置によって均(なら)された言葉で、文学も記されていくのが当たり前の時代がやってきたと言ってもいい気がします。

その頃ちょうど、青森県出身のロシア文学者、工藤正廣さんが津軽弁で書いた小説『Tsugaru』を見つけました。最初は馴染めなかったのに、粘り強く読んでいくうちに、その不思議なリズムに吸い込まれていったんです。そして、津軽弁の中にカフカが入ってきたり、SF的に原発事故が入ってきたり。こういう言葉でこういう表現があり得るのだと感動しました。そして私自身、群馬県生まれの地方出身者なので、フラットになりつつある文学の言葉に、地方語の角度、つまり土地の口語をもとにした文体で、切り込みが入れられないかと思い始めたんですね。

近代文学も近代教育も、言文一致という発想が柱にあります。それはあたかも文学の言葉、つまり書き言葉が話し言葉化したようだけれども、実は、当時の日本列島の口語は豊穣で、多彩な方言が息付いていた。ところが、近代化やマスコミが進展する戦後になると、その書き言葉のシステムに覆われ、均一化へ向かっていく。むしろ話し言葉のほうが書き言葉化したと言っていいのではないか。それゆえ、中上が紀州に生まれて濃厚な土地臭を立ち上げたことは強みにもなったでしょう。

ただ、文体というのは難しいですね。桐生弁をもとに書いてみようと思ったのですが、はじめは逆に表層的な、上滑りな詩になってしまいました。納得のいく作品ができたのは、『タマシイ・ダンス』(2007年)所収の「Wheels」が最初で、一念発起から5年位かかったと思います。そのあと、それを伸ばして桐生の織物工場を詩のトポスにした『ベットと織機』(2013年)を綴りました。

──そうだったんですね。

新井 そうして、大船渡のおんば(おばあちゃん)たちとの出会いですが、私は実は修士論文を岩手県宮古市の民俗で書いているんですよ。それで調査の時よく泊めていただいた宮古のお風呂屋さんがあったのですが、東日本大震災の津波で流されてしまい、しばらくしてお見舞いに訪ねたら、「高ちゃん、詩を書いているの? 仮設住宅の集会室ではボランティアが教室をしているから、詩の先生をやってみたら?」とそのおばさんに言われて。

ちょうど東北弁について考えたかった時でもありましたから、北上市にある日本現代詩歌文学館に相談したら、協力してくださると。ただ、場所は北上から車で通える大船渡市になり、地元のおんばたちにお知恵を借りて『東北おんば訳 石川啄木のうた』(2017年)を3年かけて編みました。さらにご縁を深めたくて映画を作りました。

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