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堀井良教:更科蕎麦の伝統を引き継ぎ「現代の名工」に選ばれる
2025/02/14

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インタビュアー奈良 雅俊(なら まさとし)
慶應義塾大学文学部教授、大学院文学研究科委員長
「更科堀井」の歴史
──堀井さんは、令和6年度の厚生労働省「卓越した技能者」(通称「現代の名工」)に選ばれました。まずはご受賞おめでとうございます。ご感想はいかがですか。
堀井 有り難うございます。「名工」は技術を支えてきた職人、着物屋さんなら染め一筋で歩んできたような人がいただける賞です。僕は大学を出てすぐに実家を継ぎ、現場に入って自分の家の蕎麦の技術を磨いていこうとやってきたので、今は社長でもありますが、ある意味職人的なところがすごくある。そこを評価されたのは人生のご褒美みたいな感じがして嬉しいですね。
──東京のお蕎麦屋さんでは初めての受賞だそうですね。「江戸蕎麦の伝統を大切にしながら、蕎麦の可能性を追求」した功績への表彰ということですが、更科堀井の歴史、更科蕎麦の伝統について教えていただけますか。
堀井 「更科堀井」の創業は寛政元(1789)年となります。もともと信州と江戸を行き来しながら、布の行商をしていたうちの祖先が、蕎麦打ちがとても上手かったそうです。そこで、信州の領主だった保科弾正から、保科のお殿様の上屋敷が麻布にあるので、江戸に出てきて蕎麦屋をやらないかと勧められて始めたのが最初なのです。
信州更級郡の「更」と保科の「科」をいただき、「信州更科蕎麦処」といって麻布十番で始めたのですね。
お殿様がスポンサーだからコネクションもたくさんあり、将軍家にもお届けできるようないいお客さんを御紹介いただいたようです。お殿様は暖簾をくぐって食べに来ることはない。だから全部、お屋敷へ持ち込むお蕎麦になる。持ち込むお蕎麦というのは、もりそばのような黒いお蕎麦だと、タンパク質が多く粘りが出てくっついてしまうので、製粉して細かい篩(ふるい)でふるって、白いお蕎麦を提供したのですね。
──それで更科蕎麦は白いわけですね。
堀井 そうですね。さらに、明治時代に四代目が「もっと白くしちゃえ」と、更科の篩のやり方や製粉のやり方を変えていった。そして今でもお付き合いのある石森製粉という会社とタイアップして「さらしな粉」を作ったのです。
当時、もりそば15銭の時に1円で売っていたというのだから相当な高級品です。今で言えば、もりが500円として3、4000円で売っているわけですから。でも江戸時代からのコネクションのお蔭か、華族の方々などに受けたらしく、園遊会などで400玉、500玉と納めたり、明治期に相当流行ったのですね。
廃業から復活まで
──高級路線が成功したのですね。
堀井 しかも茹でおきしてもさらっとほぐれるので遠くにも運べる、ということで大繁盛していたのですが、商売が上手くいくと放蕩息子が出てくるもので、私の祖父に当たる人がすごい遊び人(笑)。ライカのカメラを2台持っていたり、祖母の話だと、女性を連れて店に来て、店のお金を持ってそのままタクシーで熱海に行ったり。加えて出資していた銀行が恐慌で倒産し、昭和16年に一回店を潰してしまったのです。
しかし、名店でしたから、戦後、麻布十番の地元の方たちが「是非復興しよう」と資金を出してくださって復興したのが「永坂更科」で、今も商店街の真ん中にあります。そこに祖父も入る形となり、父も大学を出た昭和35年にその店に入ったのです。当時は高度成長期で、大量生産をして百貨店に出したりしていました。
しかし、繁盛はしていても、父は、「うちの蕎麦はもっと美味しかったんじゃないか」と思い始めた。家業として、堀井のお蕎麦としてもう一回復興し、昔からの本当に美味しいお蕎麦をやりたい、と思ったのですね。それで僕が大学を卒業する昭和59年に、今の場所に独立開業したのです。
──そこから再出発したということですね。
堀井 でも、「永坂更科」があるので、最初は全然売れなかった。しかし、戦前にうちから暖簾分けして独立した店に、昔ながらの手打ちや汁の取り方など江戸前の技術が残っていたことがわかり、あらためてそこに習いにいき、段々と店を整えていきました。
父と僕のやったことは先祖返りみたいなもので、大量生産へのアンチテーゼとして、昔ながらの仕事を復活しようとしたのです。一手間かけて江戸時代の自家製粉を取り戻したり、おつゆも長時間煮詰めたり、湯煎をかけたり、なくなりかけていた技術をもう一度掘り起こし、江戸前蕎麦を復活させた。それが評価されたのかなと思います。
──すごくいい話ですね。僕は、更科蕎麦は白くてきれいだからという理由で生まれたのかなと思ったら、もっと実際上の要求があったのですね。
堀井 もちろん上品さもあったと思うのですが、製法も複雑で高くなってしまうから庶民は買ってくれない。けれど、お殿様コネクションがあったので取ってくださるお客様がいらっしゃったのでしょうね。
──一時、堀井さんが築地の「築地さらしなの里」に行っていたのは伝統の技の習得ということなのですね。
堀井 そうです。そこと大森海岸の「布恒更科」に修業に行っていました。
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堀井 良教(ほりい よしのり)
総本家「更科堀井」代表取締役社長、九代目当主
塾員(1984 文)。卒業後、家業の「更科堀井」に入り、そば作りを始め、父とともに一度廃業していた店を復活させ、蕎麦の名店へと押し上げる。