三田評論ONLINE

【話題の人】
中村 萬壽/中村 時蔵/中村 梅枝:幼稚舎三代の歌舞伎俳優が同時襲名

2024/10/15

親子の間での稽古

──教育に携わった者としてお聞きしたいのですが、歌舞伎は世襲が多いじゃないですか。大体勉強などは親が教えると、子どもは反発するものですが、そのあたりはどうですか。

萬壽 芝居のことはよく話を聞いてくれるんだけど、私生活では反発しまくっています(笑)。唯一、同じ趣味はゴルフぐらい。他は私のやることは全部嫌だみたいな。まあ、芝居を一生懸命やってくれればいいですけれど。

時蔵 父は気分が乗った時しかちゃんと教えてくれない(笑)。他の役者さんには、懇切丁寧に教えているのに。

萬壽 あなたはよくできるから、そんなに言わなくてもいいかなと。

──大晴君はお父さんから教わるの? どんな感じ? 厳しい?

梅枝 全然。

──(笑)。萬壽さんは「何やってんだ」といった教え方はしないわけ?

時蔵 ありましたよ。子役の時に、足の形が違うとか、間が違うとか、木刀でベシベシ叩かれながら稽古していたのです。

萬壽 それは夢じゃないの(笑)。彼はどう思っているかわからないけれど、私もすごく丁寧に教わったものがいくつかあるので、それはちゃんと教えています。

でも、そうではなくて自分の工夫でやっているところは、そのぐらいでいいんじゃないのという感じで、真剣に教えるより、やりたいようにやってみればという感じですね。

祖母から受けた稽古

──萬壽さんはお父さんを早く亡くされた時、当時の内田英二幼稚舎長がまだ入学前だけど、幼稚舎の制服で葬儀に出るのを許されたとのことですね。

萬壽 父は私の幼稚舎合格をとても喜んでいたのですが、制服姿を見れずに亡くなってしまった。葬儀の時、もう制服ができていたので着せてあげたいのですがと、ある方が口添えをしてくださったら、内田舎長が「どうぞ着てください」と言っていただいて。

──人情のあるいい話だなと思ってね。今だと規則、規則という時代になってしまって、粋な計らいだなと感心します。亡くなる前に父親から、少しは教わっているのですか。

萬壽 教わっていないですよ。初舞台して2年もたたないうちだから。

──どなたに教わったのですか。

萬壽 厳しかったのは、うちのお祖母さん。小川ひなという方で、この方はゴッドマザーで、踊りも踊れたし、芸事が得意だったので、お祖父さんの三代目時蔵にも、「あんた、何やってんの」と駄目出しするのです。

その祖母からは子役の時に随分しごかれました。例えば踊るときに女形は膝をくっつけて踊る。それを見るために着物をたくし上げて、「踊りなさい」と言われ、きっちり膝が付いているかを見られたり。

その後は、祖父の弟の十七代目中村勘三郎が、子役の時からいろいろな役を教えてくれました。台詞をしゃべっている時に「はい、息吸って」とか、舞台で言われて。

──本番中にですか。

萬壽 そうです。歌舞伎はマイクを使わないからだんだん息が吸えなくなってどんどん台詞が早くなる。早くなると余計息が吸えなくなる。息を吸うとそれが間になるから、またゆっくりしゃべれるんですよ。そうやって舞台で言われたことが染みついています。

──大晴君は舞台に出るのは好き?

梅枝 うん。

萬壽 お友達が来ると頑張るよね。

梅枝 ちょっとだけ頑張ってる。

──でも襲名披露の時の見得は素晴らしかったよね。ご挨拶のときのお辞儀の仕方もよかった。

萬壽 口上はいろいろなやり方があるのです。皆、裃を着て居並ぶ口上もあるけど、狂言半ば、芝居の最中にやるのが私は好きなものですから、今回はそうしたんです。

──今回、襲名興行で「妹背山婦女庭訓」の三笠山を上演しましたが、父親と共演するというのは、何か特別な思いがありますか?

時蔵 全くないですね。そもそも普段からあまり父という感覚もない。楽屋で師匠と弟子として過ごしている時間のほうが長いので。

──「妹背山婦女庭訓」は萬壽さんも演じた演目ですね。

萬壽 昭和56年に同じ時蔵の襲名披露で演じました。私の父も昭和35年4月に時蔵になった時に襲名披露で演じたのです。

──三代続けて襲名興行で同じ演目を演じたと。大晴君は「山姥」で、お祖父さんから何か教わったの?

梅枝 ちょっとだけ。

萬壽 「見得はこうして」とか注意はしましたね。

──お祖父さんと一緒に「山姥」をやってどんな気持ち? お祖父さんだと意識する?

梅枝 全然思わないです。

──一緒なんだね。錦之助さんとか萬太郎さんとか、親戚一同が出てくれて、素晴らしい興行だったと思います。

『山姥』 坂田金時 五代目中村梅枝 (撮影 小川知子)
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事