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堀江慎吾:WBCで広報兼通訳として優勝に貢献
2023/10/25
瞬時に伝えることの難しさ
──通訳の仕事はやってみたかったのですか? きっかけはどういうものだったのでしょう。
堀江 正直、自分が通訳になるとは、思っていませんでした。田中投手のヤンキース入団が決まって、通訳を雇うので、その候補の1人として挙がりました。面接などを経て、最終的に選んでいただき、通訳としての仕事がスタートしました。
──通訳は選手が話したことを自分で咀嚼して訳して瞬間的に伝えないといけませんよね。どのような勉強をされてきたのですか。
堀江 勉強らしい勉強はしていません。やりながら学んでいく感じですかね。スポーツでの通訳は、丁寧に一語一句訳そうとするとよくないような気がします。むしろ、自分の言葉で選手が言わんとしていること、そのニュアンスをきちんと伝えることが大事なのかなと思っています。
──会見時に「この言葉は使わないで」と要望されたり、「なんて言ったの」と確認されたりすることはありますか。
堀江 幸い、今のところないですね。でも、それとは別に失敗はありますよ。会見で、選手の話したことを訳そうと思ったら、頭の中が真っ白になって、言ったことをまったく覚えていない(笑)。でも、そんな時は、困っているのに選手が気づいてくれて、ぼそぼそともう一度同じことを言ってくれました。(笑)。
──大リーグでは、たとえどんなに打たれて負けても、選手は報道陣に話すことが原則として求められています。新人時代にメディア対応は給料の一部と学ぶとも聞きます。選手によっては気持ちの切り替えが難しいとは思いますが、今まで担当された選手に話すよう諭したりしたことはありますか。
堀江 こちらが何か諭すようなことは、これまでないです。ダルビッシュ投手も田中投手もメディア対応をきちんとしなければいけないという意識をもっているので、そこが問題になったことはないです。
日米両方の環境で育って
──球団の通訳をされる前はテレビのディレクターをされていました。大学卒業後、どういうことを目標にキャリアを選ばれたのですか。
堀江 社会人になったばかりの頃は、それほど明確なビジョンを持っていませんでした。あえて言うなら、海外に出て仕事がしたいということでした。東京で3年ほど働きましたが、グリーンカード(永住権)も持っていたので、アメリカに行き、そこから好きなスポーツに関わる仕事をしようと思い、その方向に向かいました。
──堀江さんが初めてアメリカに行かれたのはいつですか。
堀江 父の仕事の関係で、5歳の時に初めてアメリカに行きました。幼稚園から4年生の途中までシカゴに住んでいました。そこから日本に戻り、中学校2年生の途中まで東京で区立の学校に通っていましたが、父がまた転勤となり、今度はニューヨークで1年。その後アトランタで1年過ごし、高校は慶應ニューヨーク学院に入り、そこから慶應大学に進みました。あちこち行きましたが、学生時代は日本とアメリカが、ちょうど半分ずつになりました。
──多感な時期に、アメリカに戻りたくないと思いませんでしたか。
堀江 少しありましたね。せっかく慣れたのにまた学校が変わるのは、子ども心には辛かったですね。
でも、今考えてみると、学生時代を色々なところで過ごすことができて、よかったと思います。日本とアメリカのあちこちに友人がいてくれますから。通訳の仕事を始めてからも、遠征先の各地で、中学や高校時代の友人と会ったりしています。
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