三田評論ONLINE

【話題の人】
徳川家広:徳川宗家第19代当主となる

2023/04/14

江戸時代の大名家との関係

──やはり東京、日光、静岡、岡崎といったゆかりの地とのご関係が深いようにお見受けします。

徳川 たしかに日光東照宮と久能山東照宮の例大祭では毎年装束を着て祭司を務めていますが、将軍家は全国区と申しますか(笑)、各地の東照宮との関係もございます。

例えば広島にも東照宮があり、2015年には200年ぶりにその大祭である「通り御祭礼」が営まれ、私が祭司を務めました。前回は1965年で私が生まれた年でしたが、当時はまだ原爆の記憶が生々しく、その前は第一次世界大戦、さらに前は長州戦争の幕府側の本陣が広島に置かれるといった調子で、200年間というもの、このお祭りは行われていなかったのです。

──広島と言えば浅野長政で知られる浅野家の所領地ですね。文学部で私の1学年上の先輩に浅野家の方がおられ、日本史学を専攻していました。

徳川 浅野様は学芸員の資格もお持ちで、「通り御祭礼」の時には大変にお世話になりました。その浅野様が、なぜ広島の領主となったか。このことを考えると、江戸時代の本質が見えてくると思います。

じつは徳川幕府は、一貫して「少数与党」だったと私は考えています。江戸時代の初期においては、第三次の朝鮮出兵を望む声が強かったと思われるからです。平和を望む人ばかりではなく、武士にかぎっては、むしろ戦争待望論が強かったのではないか。とくに、実際に朝鮮半島に渡って戦った人の多かった西日本では、そうだったと思います。

戦争は、出世のチャンスだと捉えられていたんですね。「徳川の平和」で、出世ができなくなったという怒りが、西日本には渦巻いていた可能性が高いわけです。

一方、広島は、戦略的に重要です。江戸時代以前の日本経済というのは、突き詰めると大陸の物資を近畿地方に届ける、というものでした。瀬戸内海は、そのような日本経済の大動脈です。その大動脈を扼する広島城を建てたのは毛利輝元で、落成は1590年ですが、その戦略的重要性に鑑みて、秀吉の許可を得たどころか、秀吉の命令で建設したのではないでしょうか。そして、その時点で秀吉は、朝鮮出兵を考えていました。

浅野家の開祖の浅野長政は、秀吉夫人の北政所の義理の兄ですが、家康とは非常に関係が良好でした。朝鮮出兵の記憶が濃厚で、徳川家に対する反発の強い広島を、そのような「豊臣度」の高い大名に任せた、という配置なのだと考えております。

ベトナムとの結びつき

──奥様はベトナム人でいらっしゃいますね。奥様も浄土宗を信仰しておられるそうで驚いたのですが、ベトナムでは浄土宗と臨済宗がかなりの割合を占めるそうですね。

徳川 調べてみたところ、浄土宗ではなく、浄土教でした。浄土宗と言えば、これは法然上人を開祖とする、日本の仏教教派です。浄土教は、浄土宗の背景となっている仏教思想を奉じる教派全体で、アジア各地に広まっています。

東南アジアでは仏教というと多くが小乗(上座部)仏教ですが、ベトナムは中国の影響が強く、大乗仏教の文化です。

ちなみに、儒教の影響も大変強い。妻の実家では、旧暦の大みそかの夜にきちんと年越しの儀式を行っているので、驚きました。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事