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徳川家広:徳川宗家第19代当主となる

2023/04/14

  • 徳川 家広(とくがわ いえひろ)

    第19代徳川宗家当主
    塾員(1990 経)。政治・経済評論家として活動の傍ら、公益財団法人徳川記念財団理事長を務める。本年1月、徳川宗家19代・新当主。

  • インタビュアー井奥 成彦(いおく しげひこ)

    慶應義塾大学文学部教授

当主となっての変化

──本年1月29日に、徳川宗家の第19代当主となられました。どのようなお気持ちですか。

徳川 気持ちには、とくに変化はございませんという感じです。

──そうなんですか(笑)。

徳川 当主となったばかりということで、歴代の法事のすべてに今年から来年にかけては自分で出席しようとしていますが、たくさんございますので、やはり大変ですね。1月29日の増上寺でのお披露目は、当主となるのにあたってのさまざまな行事の締めくくりとなるものでした。もともとは日光東照宮と久能山東照宮それぞれの例大祭で祭司を務めるだけだったのですが。

大変ということでは、父・徳川恒孝(つねなり)が江戸開府400年目となる2003年に創設した公益財団法人徳川記念財団の経営です。私は2021年より理事長を務めているのですが、当主となったことで、あらためて責任が重くのしかかってきます。これまでは財団の認知度を高めるために展覧会への出品を多くしていたのですが、これから3年ほどは財団の所蔵品の悉皆調査など、基礎固めに力を入れていきたいと思っています。

──徳川記念財団では研究助成もされていて慶應の教員もお世話になっています。

徳川 慶應の速水融(あきら)先生には、財団設立時から、日本近世史研究の顕著な業績に授与される「徳川賞」、日本近世史の有望な博士論文の完成を支援する奨学金「徳川奨励賞」の選考委員を務めていただきました。現在は田代和生(かずい)先生に、これら両賞の選考委員と、さらに財団の理事を務めていただいています。

江戸期に経済成長があった背景

──ご就任前後はお忙しかったことと思います。今後、祭祀や財団でのご活動が中心になっていくのでしょうか。

徳川 私自身はもともと文筆を仕事の中心としていたこともあって、そちらに専念したいと思っています。慶應在学中に勉強で苦しんだ経験は経済について考え続ける良いきっかけになり、経済についての本も何冊か上梓いたしました。これからは歴史研究にシフトしていきたいと思うのですが、歴史の分野は、研究者の中にも一生その作業に捧げても結論が出ない先生が多くおられるほど大変です。父も『江戸の遺伝子』といった著作で江戸時代がどのような時代だったかを説明しようとしてきましたが、私はまず明治維新以後の徳川公爵家の歴史について書きたいと考えています。そしてもう1つは関ケ原の戦いの「謎」の解明ですね。

それから、財団の長期のミッションとして、江戸時代に関するより正確な認識を内外に広げるというものが、ございます。理想は各国の中学、高校の世界史の教科書でも正しく記述されるようになることですね。

──私は近世、近代の経済史、産業研究が専門ですが、近年の研究では、近世は産業の成長もめざましかったことがわかってきましたね。平和な時代が長く続いたことが大きいのでしょう。

徳川 大坂落城から長州戦争(長州討伐)までで、ちょうど250年。この間の治世の安定ぶりは戦争に明け暮れながら近代化していったヨーロッパ諸国とは対照的です。

江戸時代の経済については井奥先生のおっしゃるとおりなのですが、その一方で鎖国のイメージも根強く、経済が停滞していたという誤解もあります。実際は貿易も活発でした。確かに日本人の海外渡航は禁止されていましたが、外交はきちんと存在していましたし、何よりも幕府と各藩は海外情報の収集と分析に熱心でした。

──たしかに、江戸時代にはドイツ人、イタリア人、スウェーデン人も来ています。

徳川 幕府が集めた知識・情報として、西洋起源のものも多いのですが、それ以上に重要だったのは漢文情報だと思います。とくにアヘン戦争後は、各国は公使館を天津に置くようになって、清国は否応なしに列強と外交をしなくてはならなくなっていた。清国というレンズを通じて、西洋列強の本音が透けて見えていたわけです。

最近私が力説しているのは、徳川家康が江戸に幕府を開いたこと自体が革命的だったということです。利根川を付け替えるという大工事をして、さらに干拓工事を行って、耕作可能地を激増させ、さらに水道網を巡らせるなど、空前のインフラ整備を行いました。建国以来、今で言う近畿地方が日本の中心だったのに対して、辺境でしかなかった関東・江戸を新しい中心にしようという、大変な構想です。

もう1つ、はっきりしたデータがないのですが、おそらく幕府は当時、関東と東北に人口を移す政策をとっていたのではないか。

もともと徳川家とは縁もゆかりもない山形・庄内に、一番忠実な家臣の酒井家を移封するとか、武田源氏の名族の佐竹家を常陸から秋田に移封するとか、すべてそう考えた方が、筋が通ります。佐竹家の場合、京都で名が轟いている名門・佐竹を秋田に移すことで、秋田という辺境の土地の認知度を、経済の中心だった畿内において高めるという戦略です。

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