三田評論ONLINE

【話題の人】
末藤 梨紗子:「ビズリーチ」で転職に新しい風を吹かす

2021/05/25

外資系で積み上げた経験

──大学卒業後、現在までのキャリアは輝かしく、モルガン・スタンレー、GE(ゼネラル・エレクトリック)、そしてグラクソ・スミスクラインと、いずれも外資系の大手で経験を積まれたわけですね。

末藤 私は、こういうキャリアにしたいと思って歩んだことが、実は一度もなくて、目の前のことに一生懸命向き合ってきて振り返ったら、こうなっていたというか(笑)。自分のキャリアの軸はファイナンス、財務だと思います。それにプラス経営戦略で何かを企画し、そして執行という観点からやりきる力があることが、強みだろうと思っています。

最初はモルガン・スタンレーでM&Aのアドバイザリーを経験し、物事をロジカルに分析し、プロフェッショナルとしてお客様の前に立つことを学びました。2社目がGEで、数字のみならず事業戦略、マーケティングという攻めの仕事をしました。また、リーダーシップの大切さも学びました。その後、GSKで再びファイナンスに戻り、その後内部統制、コンプライアンス、リスク管理を経営層としてどう考えるかを学びました。

それぞれいい経験を積み重ねていたら次のチャンスがやってきた、という形ですね。仕事を戦略的に選んだというよりも結果的にそうなっていった。有り難いことに、常にいい上司と、いい同僚に恵まれて、楽しく仕事をしてきました。

──例えば、日本だとあまり転職回数が多いと、「またこの人、転職するんじゃないか」と思われることもあると思います。

末藤 確かに自分が採用側に回った時、転職回数が多いと、やはりその理由は聞きます。でも、理由に依ると私は思っていて、より面白いチャンスだとかステップアップの機会を求めてという前向きな理由で、かつ実績を残している場合は、特にネガティブではないと思っています。

裏を返すと、どんなに嫌でも会社にしがみつく人間ではありたくないと自分は思っていますし、周りの人もそうあってほしいと思います。結局、就職であって、就社ではない。常に自分が活躍できる場を探して、能動的にキャリアを歩みたいと思います。

──そうですね。今は1社にしがみつかなければいけないという時代は終わろうとしている。外資系と日本企業の違いについてはどうでしょうか。

末藤 外資といえども、日本的なカルチャーのところもあれば、グローバルなカルチャーのところもあります。

私がお世話になった会社はどちらかというと後者でした。GE、GSKでは、上司が外国人で、業務も半分以上は英語という、グローバルな環境で仕事をしていました。

そこには多様性が当たり前にありました。国籍も、性別、年齢、育った環境が皆違うバックグラウンドの人が一緒に仕事をするので、違う意見が出ることに決してネガティブではない。むしろ多様な意見は組織の強み。そのような環境で仕事ができたことはとても学びが多かったと思っています。

日本企業は通常、日本人の経営者で、従業員もほとんど日本人なので、やはり視点などがどうしても似てしまいがちです。そうすると、意志を持って努力をしないと多様な環境にはならないので、ここが一番大きな違いだろうと思います。

──これからの会社というのはどのようになっていくと思いますか。

末藤 これからはどんどん社員の側が会社を選ぶ時代になると思います。コロナでそのパラダイムシフトは加速していて、例えばリモートワークができるかどうかが転職のきっかけになることもある。やはり社員に選ばれる会社でなければいけないと思います。

それは従業員に迎合しましょうという話ではなくて、魅力的な人、優秀な人を惹きつけ保持するための舞台をどう用意できるか。そこが、これからの会社経営においては、重要なファクターになると思っています。

コロナもそうですが、先行きの不透明な状況が続く時代の中で柔軟な会社経営が求められ、メンバーが個人として柔軟で、足腰が強い優秀な人材がますます求められていくのではないかなと思います。

幼少期からの海外での経験

──生い立ちについてお聞きしますが、お父様が非常に有名な外交官でいらして、海外と日本での生活を代わるがわるされていたんですよね。

末藤 生まれが海外で、0歳から3歳までワシントンD.C.で過ごし、その後は小学校3年生まで日本で教育を受けています。その後、小学校3年生から中学1年生まで、今度はロンドンに4年間滞在しました。中学1年生から高校1年生まで日本で過ごして、高校2年生、3年生とサンフランシスコで過ごし、大学から慶應という根無し草みたいな感じで。

──それはやはりつらかった部分もあるんですか。それとも前向きに捉えて楽しくやっていた?

末藤 今からは想像つかないかもしれませんが、私はもともとすごく内気です(笑)。なので、幼少期は本当につらかったです。数年おきに日本と海外を行き来したので、毎回言葉を覚えるのも中途半端で。

しかし、高校2年生の時に自らサンフランシスコに行くという選択をした時に変わりました。父親がまた海外に赴任することになり、大学受験が近かったので、両親から「日本にいなさい」と言われました。その時に、「なぜ勝手に私の人生を決めるんだ」と、先に日本を出て、しばらく単身海外でホームステイをしていました。そこで、自分で人生の選択をして、自分の人生を開きたいという思いが芽生えました。それから性格的にも外向的になり、積極的な性格に変わりました。

──それは驚きましたが素晴らしいことですね。お父様が外交官で大変なご活躍をなさった方ですが、その影響はいかがでしょうか。

末藤 父とはとても仲が良く、自然と背中を見て成長したんだろうと思います。高校の時に父の影響の大きさに気付いた出来事がありました。

海外の高校にいた時、ボランティア活動で老人ホームに週1回出かけていました。私はそこで中国人だと思われていたようなのですが、ある時、私が日本人だと分かった瞬間に、そこにいた中国系のご婦人に怒鳴られて、生卵を投げつけられました。

何があったのか分からず、その晩、父親に電話をした時、歴史認識の話をされました。そのご婦人にとって、昔の日本人が自分の家族や身近な人に行った忘れられない記憶があったのではないかと。その時、私にとっては教科書上の出来事でしかなかった「歴史」は、今も生き続けているのだと理解しました。

そしてこういう悲しい歴史が2度と起きないよう、自分がグローバルな人材として様々な国の架け橋になりたいと思った時、自分は無意識にすごく父親の影響を受けていたと気付き、外交官になりたいと思いました。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事