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清水 真弓:トロンボーン奏者としてドイツで活躍

2021/04/15

Ⓒ Takuyuki Saito
  • 清水 真弓(しみず まゆみ)

    トロンボーン奏者

    塾員(2004 理工)。南西ドイツ放送交響楽団首席奏者。ライプツィヒ音楽大学講師。オーストリア・リンツ・ブルックナー管弦楽団を経て現職。

  • インタビュアー森 泉(もり いずみ)

    慶應義塾大学名誉教授

トロンボーンへの目覚め

──南西ドイツ放送交響楽団の首席トロンボーン奏者として、またソロ奏者としても精力的に活動されている清水さんですが、トロンボーンを始められたのは、小学校の高学年だったそうですね。

清水 私が通っていた公立の小学校にとてもやる気のある先生がいらして、いろいろな管楽器を小学校に揃えて、音楽隊をつくっていたんです。私は4年生からトランペットをやっていたんですが、5年生に上がる時に、その先生が、「おまえは大きいからトロンボーンをやれ」と。

でも後から聞くと、小学生だと音程を取るのが難しいけれど、音感がよかったからだったそうです。トランペットはピストンを押せばいいですが、トロンボーンはポジションをある程度耳に頼って決めなければいけませんので。

──その後、慶應の湘南藤沢中等部に入学されますが、最初はバスケット部に入りたかったのでしょう?

清水 そうなんです。ところが、見学に行ったら先輩たちがウェルカムな雰囲気でなく、たまたま一緒にいた子たちが吹奏楽部へ行くと言うのでついていくと、経験者なので普通に音が出る。すると、「是非おいでよ」となって、部活提出書にバスケットボール部と書いたのを修正液で消して吹奏楽部と書いて出したのが運命の始まりで(笑)。

──その時は特別にトロンボーンに興味があったわけでもない?

清水 全くなかったです。それに吹奏楽部も最初は誰も相手にしてくれなかった。ボケーッと毎日練習せずに読書をしてさぼっていました。

ところがある時、留学していた高校の先輩が戻ってきて部室でトロンボーンを吹いている。その先輩の出す音を聞いて「あーっ、なんだこれは」と。

──そこでトロンボーンの魅力に目覚めたわけですか。

清水 そうです。その時のことは今でもよく覚えています。それで中学1年生の冬ぐらいに、いきなり自分も上手くなったんです。何でも吹けるみたいになり楽しくなって。

先輩からソロのCDを聴かせてもらったり、自分で楽譜を手に入れて練習して、中学3年生の終わり頃に初めて神奈川音楽コンクールに出ました。その頃はトロンボーン奏者になろうという気はありませんでしたが、そうやってはまっていきました。

大学時代のワグネルでの経験

──大学ではワグネル・ソサィエティー・オーケストラに所属されて、音楽一色の生活だったそうですが、ワグネル時代の一番の思い出というと何でしょうか。

清水 いろいろ楽しかったんですけど、何カ月もの間、すごくリハーサルをして本番に臨むから、1回の本番の重みがすごいんです。プロになると何カ月もリハーサルするなんて絶対にない。3日やって本番という感じです。

だから、大学4年の卒業時の演奏会などは、もうなんとも言えない緊張感と感動があって、人生で一番の感動かもしれないと舞台の上で思いました。その時は自分がベルリン・フィルで演奏するなんて思っていなかったので。ベルリンの時は、「あっ、もっと感動があった」と思いましたけど(笑)。

──それだけ音楽にのめり込んでいたら、理工学部では大変だったでしょう。

清水 実験などがあるから物理的には忙しかったですね。でも、こんなこと言うと怒られそうですが、ワグネルの練習場所が日吉で理工学部は矢上なので、時間のロスはないんです(笑)。

──なるほど。物理情報工学科に進まれたのでしたね。

清水 田中敏幸先生の研究室で画像処理をやったのですが、落ちこぼれもいいところでした。田中先生はやさしいので、あまりきつく言わないんですけど、音楽ばかりやっていてひどかったですね。

──大学院で今度は生命情報工学科の富田豊先生のところへ行きますね。

清水 私の代までは生命情報工学科がなく、物理情報工学科として富田先生の研究室に行っていました。その当時、助手でいらっしゃった牛場潤一先生が中高吹奏楽部の先輩だったんですね。これでもうワグネルも終わるし、大学院に行くからにはあと2年間、研究を頑張ってやってみようという意気込みがちょっとあったんです。

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